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No.1839 2014-01-26
■日曜日なので、午後はラジオで山下達郎のサンデーソングブックを聞いていた。 2012年から2013年にかけて、山下氏に縁のある佐藤博さん、アラン・オデイさん、青山純さん、大瀧詠一さんらが次々と亡くなった。 山下氏のショックは如何ばかりかと思う。そんな中、青山純さんの追悼特集ということで、二週にわたって彼の参加曲をかけて、 当時のレコーディングやライブの思い出等を語り、偲んでいた。
■そんな放送のなかで、特に印象に残った話があった。
こちらの書き起こし記事から、少し長いが、引用させてもらう。
http://d.hatena.ne.jp/hibiky/20140126/1390720713
「今までですね、いろいろなおたよりを頂いているんですけれども…何度か演奏メンバーを代えて参りました。そのたびにですね、 先週もちょっと申し上げましたが、スタッフには反対されましたし、『以前のほうがよかった』という保守的なお客様も大勢 いらっしゃいました。現在では押しも押されぬトップドラマーである青山純という人ですら、私が彼を起用した当初は、スタッフや 聴衆から『なぜそんな無名のミュージシャンを使うのか?』と反対されたり、抗議されたりもしました。お客さんの中には文句を言って、 それ以来こなくなるという方もいらっしゃいました。同じようなことが何度か繰り返されて現在に至っております。今もそうした情勢は あまり変わりありません。 ボブ・ディランの『ノー・ディレクション・ホーム』という映画を見るまでもなく、芸事に対してのお客さんの保守性というものは 大昔から存在しました。それは、芸事というのは、観る側にとっては自分の歴史の投影…自分史ですね。自分史の投影、 自分史の対象化という、そうした結果であります。歌舞伎とか落語とか伝統芸能の世界だとですね、必ず『先代はよかった! お前の芸なんて先代に比べれば…』という、そういう『昔はよかった』というですね、まさに自分史の反映としての芸事の評価と いうものが昔からございます。
ですが、古い世代というのは新しい世代に対する寛容さというのを常に持っていなければならないと僕は常に考えております。 若い世代がいつの時代も続々と生まれてきます。 われわれ古い世代はそれらの若い、新しい才能を見出して、抜擢し、助けて、日の当たる場所へ引っ張りだしてあげなければ いけません。しかるに、多くの業界人、それから耳の肥えた聴衆とかお客さんですらもですね、自分に馴染みのある、自分たちに とっての、すなわち自分史の反映としての一流・有名・ミュージシャン、そうしたブランドを金科玉条と崇めまして、『昔はよかった。 オレたちの時代はよかった。それにひきかえ今の若い者は…』としばしばそういうことを口にします。
私のライヴに関しましても、ここ10年間、青山くんはいませんので、『青山純のいないライヴなんて…』という方も少なからず おられることを、私、ようく承知しております。別にそういう方々にですね、再び来て頂こうと思いませんが、ただひとつはっきりさせて おかなければならないことは、今まで私を手伝ってもらったドラマー、上原裕や村上秀一、そして青山純、そして現在のパートナー であります小笠原拓海という、みな優れて卓越したドラマーであります。ほかにもスタジオやライヴで縁のあった林立夫さん、 高橋幸宏さん、知己はないけれども最近だと吉田佳史さんとか玉田豊夢さんとか素晴らしいドラマーは今も昔もたくさん存在します。 彼らひとりひとりの誰もが、それぞれにプレイヤーとしての個性や特殊性というものを有しておりまして、それらはもとより優劣の比較対象 にならないものであります。したがって、ファンの贔屓、あるいは贔屓の引き倒し、何度も申し上げております自分史の反映、そうした 次元での誰が誰より優れているとか劣っているとかいう無意味な評論家ごっこは、もとより私はなんの興味も持っておりません。 友達の死というのは大変に悲しいし、残念な現実ですけれども、それでも我々は生きていかなければならないし、音楽を続けて いかなければなりません。青山純の数多の名演というのはしっかりと記録に残されております。残された者は去っていった人々の思いを 受け継ぎながら音楽を続けていかなければならないと思っています。
…近いうちに大瀧(詠一)さんの追悼特集も企画する予定でおりますけれども、大瀧さんが亡くなってから後ですね、番組宛に 『早く追悼特集をやれ』とか『追悼特集は誰も知らないレアアイテムをたくさんかけろ』とか『最低半年はやれ』とか、そういった類の ハガキが少なからず舞い込んで参ります。ツイッター等のネットでも…私、そういうのは興味ありませんので見ませんが、そういう発言が あると聞きます。そうしたファンとかマニアとかおっしゃる人々のある意味での独善性というものは、大瀧さんがもっとも忌み嫌ったもので ありました。
…え〜、親とか兄弟の関係が他人に説明できないように、僕と青山くん、僕と大瀧さん、そうした個人的関係もまた第三者に 説明できるものではないし、説明したいとも思いません。したがって、追悼特集の迅速性とか密度というものに私はもとより全く関心は ございません。そこのところ、あらかじめご了承いただきたいと思います。時期が来たら大瀧さんの追悼特集、やってみたいと思います。 というわけで、長くなってしまいましたが、青山純追悼特集、'極私的'青山純追悼特集、2パートでお届けしました」
■落ち着いた調子ではあったが、珍しく長く自身の考えを訥々と話していた。少し鼻をすすっていたように聞こえた。 いい放送だった。
No.1838 2014-01-25
■夜、千葉駅近くで数人での集まり。飲酒など。
No.1837 2014-01-13
冬の函館

■夕方の便で函館から羽田へ。東京や千葉はあたたかい。
No.1836 2014-01-12
冬の函館

■父の三回忌のため、寺へ。親族が集まり、お経をあげてもらう。父が亡くなったときのように寒い日で、外は雪が深く積もっていた。 函館の冬らしい、どんよりとした空だった。
No.1835 2014-01-11
■午前の便で羽田から函館へ。正月は帰省しなかったので、連休を利用して実家へ。
No.1834 2014-01-07
レゴブロックのパンダ

■津田沼のパルコで、レゴブロックで作った世界遺産を飾る企画をやってて、たまたま行ったら各階にアンコールワットやら ピラミッドやら他にもいろいろ置いてあって、うまく作るものだなあと感心した。日本のも、何かあった気がする。平等院鳳凰堂だったか。 パンダもあった。
No.1833 2014-01-05
Each Time

■新年最初の日曜日で、いつも通り午後のラジオでは山下達郎の「サンデーソングブック」が放送されていた。 2011年までは毎年、新年最初の放送で大瀧詠一さんをゲストに迎えての「新春放談」が恒例だった。 もう大瀧さんの話は聞けないんだなあと思った。大瀧さんの声はやわらかくて耳に優しい。
No.1832 2014-01-03
近所の神社
近所の神社。

■近くの小さな神社まで歩いて初詣。良い一年となるように願い、手を合わせる。

No.1831 2014-01-01
八栗寺
85番、八栗寺。

志度寺
86番、志度寺。

長尾寺
87番、長尾寺。

最後の巡拝路
最後の巡拝路。

女体山からの風景
女体山からの風景。

結願
結願。


88番、大窪寺。

■新しい年が明けた。特に冬に西日本を旅するといつも思うが、夜明けが遅い。 まだ暗いうちにホテルをチェックアウトした。ホテルの従業員さん達は仕事しながら新年を迎えている。ありがたいことである。 琴電志度線の八栗駅の近くの牟礼という交差点から北東方向へ伸びる道をずっと道なりに歩いてゆく。 徐々に上り坂になってゆき、角度もきつくなってくる。歩いているうちに少しずつ空が白んでくる。 まっすぐだった道が少しずつうねうねとカーブが増えてくる。八栗山の登山口から山頂へ向かうケーブルカーの乗り場があり、 駐車場は車がいっぱい停まっている。お遍路さんではなく、地元の人の初詣のようだ。 交通誘導員もいて、早朝なのになかなか賑わっている。振り返ると遠くに高松市街地の夜景、というのか朝景というべきか、町の灯りが見える。 標高375mの山頂にある85番の八栗寺は初詣客がそれなりに来ていた。前の晩にホテルの人に、元旦の八栗寺は混雑していると 聞いていたので覚悟していたが、四国の混雑と関東の混雑の基準はずいぶん違うのではないかと思った。 いやになるほどの人の多さではぜんぜんなかった。八栗寺は山の上の限られたスペースに細長い境内を持つ寺で、参道には出店がいくつか並んでいた。 無事、納経を済ませて朱印を頂戴する。残りは3寺。
■山を降り切ったあたりで、今年最初の太陽が、溜め池越しの遠くに見える山の間から姿を見せる。オレンジ色にまばゆく光っていた。 また一年が始まったんだなと思う。西の方角には前日登った屋島の特徴的な姿の山容が見える。 八栗山の山麓の道から延々下り、琴電の線路と国道11号線、JR高徳線が平行している海沿いを南東へ。 空は青く、海も穏やかで、歩いてて気持ちがいい。高松市からさぬき市に入り、琴電の終点、志度駅から、参道の雰囲気が濃い道を 東へ歩いて数分のところにあるのが86番札所の志度寺である。近くに海の気配を感じるロケーションで、天候も相俟って広い境内は明るい雰囲気。 ここの寺は初詣客はほとんどおらず閑散としているので、ゆっくりできる。朱塗りの五重塔が印象的な境内で、本堂も堂々たる建物だった。 石の観音様はニットキャップを被っていた。無事に納経を済ませ、これで残りは二つ。JRの志度駅のすぐそばにあるコンビニエンスストアで コーヒーを一杯買って飲む。最近はどのコンビニチェーンでも値段のわりにそこそこおいしいコーヒーが飲める。
■志度寺からほぼまっすぐ南へ約7kmで87番の長尾寺に到着。 琴電の長尾駅から近く、JRの造田駅からでも3kmほどの距離なので、アクセスはいいほうだと思う。 鐘の吊るされた山門をくぐると、広々とした境内が広がる。少し風が強く、背の高い幟がばたばたと風ではためいていた。 こぢんまりした納経所で朱印を頂戴し、納経帳のページがついに残り1ページになった。 とうとう、残りの札所は一つだけになった。ロードバイクで巡拝してるらしい自転車のお遍路さんがいて、熱心に地図を見ている。 境内の片隅には最後の札所への道案内看板が立っていて、それをじっくりと見た。 途中から複数のルートがあるらしく、ダムのあたりで分かれ道になるらしいことがわかる。 ここから長い距離を歩くので、少し長目の休憩をとった。
■門を出て、最後の巡拝路を歩き出す。とうとうこれで終わりだ。歩き出したときはそんな感慨があったが、この最後の札所への 道が長く険しく、だんだん余裕がなくなっていくのだった。道端のおばあさんが挨拶してくる。 長尾の町を南へ抜ける。徐々に民家がまばらになり、山へ向かって少しずつ、道が登り坂になってくる。 香川県道3号線を南へ5kmほど歩くと前山ダムに到着。ここから分かれ道で、立て札には「車道直進10.6k」 「女体山越え7.8k」と書かれている。車道を行けば距離は長いが歩きやすく楽だろうが、ここまでの巡拝でも極力 昔ながらの遍路道を歩いてきたので、きつくても最後まで楽せず険しい道を行こう、と決めた。 「女体山越えは所要約一時間余分にかかる 登坂峻険 絶景感動のコース也」とも書かれていた。
■ダムの堰の上の道を渡って小さなダム湖のへりの道を歩く。道のわきにお地蔵さんが一定間隔で置かれていて、 色鮮やかな毛糸の服を着せてもらっている。大きな岩肌の上を細い筋の水が流れていくのが見える。 舗装路が途切れ、いよいよ山中へ入ってゆく。朽ち果てて崩れた廃屋があった。崖のふちの岩を足場に急坂を一歩ずつ登る。 せまい山道をひたすら歩く。下りになってとうとう山頂を越えたか、と思うことが数度あったが、そのたびにすぐにまた上りになり、 山越えはまだ先かと思う。山頂に近づくにつれ、植物の背は低くなり、植生の密度も低くなる。風が吹きさらしでとても寒い。 道が途切れ、ルートを間違ったかと思うと前方の岩肌にかすがいのような金具が打ち付けてあって、それをつかみながらよじ登る。 元日から山に登って修験者の修行のようなことをやっている。
■山頂の標高は776m。確かに絶景である。眼下には香川の狭い平野の畑と集落が見える。 山頂はさらに風が強く、じっと景色を見ているととても寒い。あずま屋があり、ベンチが設置されているので少しの間だけ座って休む。 錆びた四角い缶が置いてあり、無人駅に置いてあるような、訪問者が一言書き残すノートが置いてあったので、一筆書いておいた。 早々と休憩を切り上げ、先を目指す。一歩ずつ下ってゆく。これで本当に終わりなんだな、89番は無いんだな、と思いながら 山を下りてゆく。遠くからかすかに寺の鐘の音が聞こえる。最後の札所がもう近い。「結願」と書かれた札が木の枝にぶらさがっている。 前方の眼下に境内の様子が見えてくる。長尾寺からおよそ16km、最後の札所、88番、大窪寺に到着。
■結願の寺、大窪寺は初詣客でとっても賑わっている。山の懐に擁かれた境内で、人混みにまざって本堂、大師堂で手を合わせ、最後の納経。 朱印を頂戴したとき、住職さんに「ご苦労様やったね」と言われる。境内には八十八箇所巡拝を終えた人たちが奉納した杖が ぎっしりと詰まったガラス張りの小屋みたいのがあったが、自分の杖は持ち帰ることにした。長い道のりを一緒に越えてきた杖も 最初に比べると先が磨り減って少し短くなっている。2010年の12月、鉄道乗りつぶしの旅の途中に立ち寄った、 室戸岬の小高い山の上にある24番札所の最御崎寺を訪れてから幾度か四国に渡り、この日ようやく八十八箇所の巡拝を 無事に終えることができた。その期間の途中で父の死があり、ともに暮らした猫も世を去り、親類の死もあった。 いままでに亡くなった人たちの顔を思い浮かべながら、一つ一つの寺の本堂と大師堂の前で手を合わせるようにした。 震災もあり、以前よりも死というものについて考えるようになった気がする。 途中で、なんでこんなことをしているんだか、という思いもなくはなかったが、黙々と四国の道を歩き、山や川を越え、 その中で見たものや聞いたもの、感じたことや考えたことはどれもこれも思い出深く、貴重な時間だった。
■さすがに最後の寺だけあって、人里離れた場所にも関わらず門前は店や宿が建ち並び、駐車場は車がたくさん停まっている。 境内の様子を遠くから眺めていたおばちゃんが「すごい人混みや。芸能人でも来てるんちゃうか」と言っていたが、 そこまでの人混みでもなく、やはり四国の人の基準は関東あたりの感覚とはずいぶんちがうと思う。北海道人の自分は、 四国の人の感覚のほうに近い。立派で大きな山門から寺を出て、一軒の店に入りうどんを食べた。店内のテレビでは天皇杯決勝の広島対マリノス。 寺のそばから、一日三便のさぬき市のコミュニティバスでオレンジタウンというJRの駅まで行き、列車を乗り継いで瀬戸大橋を渡る。 岡山から新幹線で品川。快速で津田沼。元日の東京近辺の列車や駅はとても空いていた。夜遅くに津田沼の自宅に到着。
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