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No.1727 2012-12-30
観音寺

神恵院

本山寺
冬の遍路最終目。

■遍路最終日はまた雨。しかもかなり強く降っているのであまり歩く気がしない。いつもは夜明け前からスタートしていたが、 この日はゆっくり宿を出た。雨の中を観音寺駅から歩き出す。観音寺駅前の市街地の風景は、どことなく函館の町に似ているように感じたが、 ようするに地方都市によくある駅前の商店街の町並みなのだろう。なるべく商店等の軒先の屋根の下を歩いて雨を避けようとするが、 それほど避けられず、あまり意味がなかった。冬の雨はやはりつらい。北西方向へしばらく歩く。財田川に架かる橋を渡り、駅から20分ほどで参道らしき道の入口に到着。 町中の寺院なので、ちょっとした石段はあったがほとんど登ったりすることもなく楽だった。ここはちょっと変わっていて、一つの境内に二つの札所がある。 68番札所の神恵院と69番札所の観音寺である。なので、八十八ヶ所霊場とは言うものの、実質八十七ヶ所のような気がする。
■背後に小高い山が見える横に長い境内で、二つの札所があるのに、山門も鐘楼も一つしかない。山門から入って左手が68番神恵院があり、安藤忠雄が建てそうなコンクリート打ちっぱなしの箱みたいな構造物をくぐって階段を上ると本堂がある。 階段を下り、右手に大師堂。境内の右側の一番奥が室町時代初期に建てられた69番観音寺の本堂で、重要文化財に指定されている。寄棟造の屋根が印象的だ。その本堂には「常州下妻庄…貞和三年…」という、 僧侶のものと思われる落書きが残っているそうだ。常州下妻庄は現在の茨城県下妻市なのだろう。貞和三年は1347年。これを書いた者は関東からの遍路修行に来た僧侶だったのだろうか。この落書きは貴重な遍路文化の資料とされている。 二つの札所があるので、納経所では二つの朱印を押してくれる。料金も二箇所分である。一人の歩き遍路の男性がこちらに「歩いてるんか」と声をかけてきた。 その男は私と同じように上下レインウェア、バックパックにカバーをつけていた。時々電車も乗ってますけど、とか説明するのも面倒だったので、歩いてます、と応えると彼は満足そうにうなずいてすたすたと歩いていった。
■今回最後の札所を目指して歩き出す。まだ雨は止まない。財田川に沿って東へ向かう。茂木浄水場という観音寺市所有の施設があり、古い建物が残っていて今でもそれが現役で使われているようだ。 途中からサイクリングロードのような道に入る。たまにすれ違ったり追い抜いていったりしていた自動車にもまったく遭遇しなくなり、建物もなくなる。人の気配がまったくない川べりを歩き続け、 予讃線の線路の下をくぐり、遠くに五重塔が見えてくる。おお、あそこか、と思いながら橋を渡り、そちらの方向へむかう。1時間以上歩き続け、70番札所の本山寺に到着。 四国八十八ヶ所霊場で五重塔があるのはこの本山寺と志度寺、以前行った竹林寺と善通寺の四つだけなのだそうだ。本山寺の五重塔は明治43年に再建されたもの。 鎌倉時代に建立された本堂は国宝となっている。仁王門は重要文化財。五重塔、鐘楼、大師堂、大日堂、十王堂、客殿、慰霊堂など、立派な建物が広々とした境内にバランスよく配されており、 大寺院として栄えた往時がしのばれる。大きな境内だが参拝者は3、4人ほどしかおらず、雨の音が聞こえる以外はひっそりとしていた。
■これで今回の遍路は終了。予讃線の本山駅まで歩く。犬に吠えられたり、道を間違えたりしながら20分ほどで駅に到着。駅舎は小さくないが、無人駅だった。 濡れた上着等を袋に入れ、着替える。待合室で地元のおばちゃんに話しかけられた。わざわざ四国に来てお遍路なんてえらいねえ、うちの息子なんてごろごろしてるばっかり、 というようなことを言っていた。おばちゃんの息子が私と同じ年齢らしい。本山寺はいいお寺だった、というようなことを言ったら喜んでいた。小さな子が親に連れられて列車を見に来ていた。 一駅戻って観音寺駅へ。時間があったので待合室で座っていたら、おばあさんに話しかけられた。私が杖を持っていたから遍路をしていると思ったらしい。 千葉から孫が帰省してくるのを迎えにきたらしい。ほどなくして下り列車が到着し、大学生くらいのお孫さんが改札から出てきた。おばあさんはとてもうれしそうだった。 上りの岡山行き特急列車に乗車。瀬戸内海沿いの工場地帯では、昼夜分かたず巨大な煙突からもくもくと白い湯気のような煙が上がっている。 瀬戸大橋を通る途中、眼下に与島が見えた。15年以上前、岡山の叔父に連れて来てもらったことがあった。 その叔父も亡くなって10年近く経つ。観音寺からちょうど一時間ほどで岡山に到着。新幹線で東京まで。
■前回の経験から、靴下は厚手のウールものを用意したので、足の裏のダメージはかなり軽減できたように思う。天気さえ良ければ、歩くには冬のほうがいい。 10月のときは、山道で少し立ち止まって休むとすぐに虫が寄ってきたが、冬だとそれがないので助かる。汗をあまりかかないのもいいが、服装をまちがうと風邪をひくおそれがあるので、 気をつけないといけない。望んでいたものではないが、雨の中をたくさん歩いたことも、貴重な経験になったのではないかと思う。 もう若くないので、無理をしてはいけないと常に意識した。半日だけでも休養日をとることができればかなり体は楽になる。 あと、金剛杖を持っているとおばあさんによく話しかけられるということがわかった。歩きながらいろんなことを考えた。これこそ遍路の意味なのだろうなと改めて強く感じた。
No.1726 2012-12-29
神峯寺への道

神峯寺への道

津照寺

金剛頂寺への道
冬の遍路五日目。

■遍路五日目。高知県内の残り三つの札所を目指す。ちょっと変則的になるが、27番、25番、26番、と回る。 唐浜駅から真っ暗な道を歩き出す。夜明けまでまだけっこう時間があるので右手に杖、左手にライトを持って歩く。 夜明け前から出発するのは連日のことだが、町中なら車は走ってるしコンビニエンスストアは営業しているから人の気配はあるが、夜明け前の、 街灯もない山の道に入っていくのは緊張感がある。まばらにあった人家も途絶え、自分の足音しかしない。最初の2kmほどは車も通れる舗装道を歩く。 途中、一台だけ車が山頂へ向かって走っていった。運転してた人は、暗い中歩いている人間がいたからびっくりしただろうか。それとも、わりとよくあることで そんなに驚かないだろうか。水道関係の施設が山の中腹にあった。
■うっすら空が明るくなってきた。車道を離れ、2kmほどある徒歩の遍路道へ入ってゆく。暗がりの中に「マムシ注意」の看板が立っている。冬だから冬眠中だろうが、 少し怖い感じがする。山と空の境目が金色になり、夜が明ける。いい天気の一日にになりそうな空だ。日の出はこんなにありがたいものかと思った。途中、見晴らしのいい場所があり、 土佐湾に面する安田の町並みが見える。歩き始めてから一時間近くかかり、山頂近くにある27番札所の神峯寺に到着。山門のとなりには鳥居がある。 さらに高い場所に神峯神社というのがあるようだ。山門の前には門松が飾られ、来たる新年を迎える準備が進んでいる。標高はおよそ450m。 本堂と大師堂が離れた場所にあり、階段を登ったり下りたりしてお参りする。まだ他に参拝者はおらず、静かで朝の穏やかな日の光が心地よく、 きりっと冷えた朝の山の空気が気持ちいい。納経所ではおばちゃんに、歩いて登ってきたか、と聞かれた。歩いてる人にはお菓子の御接待があるらしく、 クッキーと飴をいただいた。帰り際、入れ違いに二人、三人と駐車場のほうから参拝者が歩いてきた。
■山を下りる。暗いときはよく見えなかった道路沿いの様子がよく見える。畑が所々にあり、作業小屋や農機具の小屋がぽつぽつと建っている。 平地まで下りてきて、唐浜駅に戻ってきた。駅の前は広場のようになっていて、一角にはガラス戸のついた立派な休憩所がある。 土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線の各駅には、漫画家のやなせたかし氏によるキャラクターが設定されていて、唐浜駅には「とうのはま へんろ君」というのがいた。 列車で奈半利まで戻り、バスで室戸方面へ。2010年の年末にもこの同じ路線バスに乗ったことがあった。まさか二度乗ることになるとは思っていなかった。 あのときは逆方向のバスで、室戸岬から乗った。岬にいた猫達はまだ元気だろうかと思い出す。海沿いの、景色のいい国道55線をひたすら南東へ向かい約40分、 室戸というバス停で下車。海と山に挟まれた小さな平地に室戸の市街が広がり、近辺には市役所や郵便局、学校や銀行、病院、漁港、飲み屋街などが コンパクトにまとまっている。思いのほか飲み屋系の店が多くて驚く。そんな店が軒を連ねる道を歩き、きょろきょろしていると建物の二階からおばさんが 「つきあたりを右や」と道を教えてくれた。バス停から数分で25番札所の津照寺に到着。長い石段の先に竜宮城をイメージしたような朱色の門が建っている。 登り切った場所に本堂があり、室戸の港が見渡せる。下まで降りると大師堂と納経所があった。小さな子供をつれた家族が石段を登っていった。
■国道55号線をしばらく北西へ歩き、2km弱ほどいったところから側道に入る。沿道の家では窓ガラスを拭いている。年末の大掃除なのだろう。 室戸病院を過ぎ、橋を渡ってから交差点を右へ。北にある小高い山に入ってゆく。徐々に勾配がきつくなり、途中で休んでいるとサイレンが鳴り響いた。 なんだろうかと思ったら、ちょうど正午だった。標高200m近いところにあるのが26番札所の金剛頂寺である。高知の西の端、足摺岬には金剛福寺というのがあったが、 それと名前が似ている。津照寺からは4kmほどの距離だった。石段の脇の柱には「厄除」という文字が刻まれていて、踊り場には「男坂」とか「女坂」という文字もある。 室戸のあたりでは、室戸岬にある24番札所の最御崎寺のことを「東寺」、この金剛頂寺のことを「西寺」と呼ぶらしい。山の上の境内にしては広く、 本堂はコンクリート造に見える。これで、愛媛県に続いて高知県内の札所も全部回り終えることができた。来た道を戻り、山を下りて室戸病院の近くにある 元橋というバス停からバスに乗り奈半利まで。国道55号線で交通事故の現場を見かけた。ジーンズ姿の男性が倒れていたが大丈夫だっただろうか。
■奈半利から後免、多度津へ。四国を鉄道で縦断する。後免駅で「お遍路ですか」と老婦人に話しかけられる。多度津からの列車は大変な混雑で、 帰省ラッシュに巻き込まれた。昼に金剛福寺を後にし、愛媛の伊予三島まで戻ったときには既に夜の6時近くになっていた。伊予三島駅の改札の前には、 帰省者を迎える者達がたくさん来ていた。昔、函館空港へ長靴姿のまま車で迎えに来てくれた父の姿をちょっと思い出した。駅前のホテルに宿泊。
No.1725 2012-12-28
三角寺への道からの風景

三角寺

三角寺山からの下山道にて
冬の遍路四日目。

■遍路四日目は夜明け前の伊予三島駅からスタート。前半三日間は天気に恵まれたが、とうとう雨に見舞われた。 出発前にしっかりと雨対策をする。バックパックにはカバーを付け、上下、ゴアテックス系素材のレインウェアを着る。携帯電話などの電子機器はちいさなジップロックに入れる。 靴には自宅で一応防水スプレーを噴きつけてきた。今までの旅行やRISING SUN ROCK FESTIVAL in EZOでの経験からある程度の雨対策はできたと思うが、 それでも雨の中を長い時間歩くというのはあまり経験がない。雨だと体が濡れて冷えるし、視界が悪くなる。地図を見るのもわずらわしくなるし、足元が滑るというのもあるが、 なによりつらいのは、写真が撮れないということである。人間の脳というやつはコンピュータと同様に、言葉や文字情報は案外記憶できるが風景などの画像情報になると容量を食うのか、 なかなか覚えられない。だからなるべくデジタルカメラで撮影して残しておこうと思うのだが、雨の中だと撮影するにもカメラやレンズが濡れないように気を使わなければいけなくなるので、それが厄介だ。
■駅の南口から川之江三島バイパスという大きな道に出る。沿道のコンビニエンスストアだけが煌々と光っている。大きなトラックがたくさん走っている。 中曽根小学校のある交差点から側道に入り東へ。三島東中学校の前を通り、松山自動車道沿いの道路を歩く。四国中央市の市街地から徐々に離れ、 あたりは農村のような風景になる。まっすぐの道がなくなり、うねった道をひたすら登る。見晴らしのいい場所があるが空も海も鉛色で、景色も霞んでいる。 地図で調べると6.5km程度の距離なのだが、歩いても歩いてもなかなかたどり着かない。途中、急な登り坂を少し歩くが、あとはほとんど舗装された道で、 歩きにくくはない。2時間近く歩いて三角寺山の中腹にある65番札所、三角寺に到着。標高は350〜400mといったところだろうか。思いのほか広い駐車場があり、 その前には一軒の商店のような建物があるが、朝なのでまだ閉まっている。石段を上がり山門をくぐる。鐘楼は無いようで、山門に鐘が吊るしてある。 境内には人の姿はなく、ただ雨の音だけがしていた。屋根の下にあるベンチで荷を下ろし、納経を済ませる。山の中腹にあるわりには開放感のある境内で、 梅や桜の木が植えてある。これで愛媛県内の札所は全て回り終えた。
■続けてこのまま歩いて徳島県に入ろうかと思っていたのだけど、体が冷えているのを感じ、計画を変えようと考えた。もう自分も若くはない。 風邪などひいたらしんどいし、何よりも以前に比べて風邪などに罹ると治るまで時間がかかる。ここまでは順調な行程だったが、 ここで無理をせず、66番、67番の札所へ行くことは諦め、午後は思い切って移動と休養にあてることにした。とりあえず山を降りることにし、 町の外れにある障害者施設や老人ホームのそばを通り、松山自動車道の下をくぐって市街地まで戻る。どこをどう歩いたのか、いつのまにか国道192号線沿いにある 石川病院という建物の前まで来ていた。病院の近くにある中新町というバス停から適当な路線バスに乗ることにした。運よくたまたま伊予三島駅行きのバスが30分後にあるので、 雨の中待つ。バスはほぼ定刻通りに来たが乗客は2、3人だった。20分ほどで伊予三島駅前に到着。270円。ここから、一気に鉄道で高知を目指す。 10月の遍路行で高知県内の札所はかなり回ったが、あと3つだけ残してしまっているので、今回はそこを回ってしまうつもりだった。 駅の待合室で多少、雨装備を外して着替え、濡れたものはビニール袋に入れた。
■予讃線で伊予三島から観音寺まで行き、多度津で土讃線に乗り換え。待ち時間が40分以上あったので何気なく地図を見ていたら、 駅から1kmほどの場所に77番札所の道隆寺があることに気づき、まだ雨は降っているが行ってみることにした。線路沿いの道を北へ歩き、 跨線橋を渡る。県道21号線というわりと大きな道に面した場所に道隆寺があった。香川県内の札所は、以前訪れた75番善通寺に続いて二つ目。 本堂や大師堂の他に、眼病に御利益があるという小さなお堂が一つあった。お参りをし納経所へ行くと、初老の女性が「ようお参り」と言った。 駅まで戻り、高知行きの列車に乗る。列車の中はあたたかく、濡れた服や靴もいくらか乾いた気がする。後免駅で下車。この駅は10月、 29番札所の国分寺へ行くために利用した。土佐くろしお鉄道に乗り換える。乗客はけっこう乗っていて、最初は座席があいてなかったが、 のいち駅やあかおか駅でけっこう降りていった。安芸駅でさらに多くの乗客が下車し、車内はがらんとした。
■終点の奈半利に着いたのは午後4時近く。駅前のスーパーマーケットで少し買い物。正月向けの食材や飾り、餅などがたくさん売られていた。 駅から東へ少し歩くと古い町並みが残る一画がある。太い柱と梁とスロープと床版でできたコンクリート製の構造物があり、一見立体駐車場のようにも見える。 高さは3階建か4階建の建物くらいで、なにかと思ったら津波のときに避難するためのものだった。駅から歩いて15分ほどの場所にあるホテルに到着。 日帰り入浴も受け入れている大浴場のあるホテルで、露天風呂まであった。ゆっくり湯につかって疲れを癒す。まだ雨は降り続いていた。
No.1724 2012-12-27
横峰寺への道

横峰寺への道

香園寺への道

前神寺本堂

石鎚山駅
冬の遍路三日目。

■遍路三日目は伊予小松駅の南西4km、愛媛県西条市の大頭交差点からスタート。ようやく夜が明け、山並みの稜線が見えてくる。 高知県との県境の山々、笹ヶ峰、伊予富士、石鎚山等々である。これから向かう方向に2000m近くの山が連なる。そこまでの高さまでは登らないが、 四国八十八箇所霊場の中でも屈指の難所と言われる道をゆき、前方に見える山中にある60番札所の横峰寺を目指す。まずは国道11号線から南へ向かってまっすぐ、県道147号線を歩く。 のどかな農村風景が広がり、途中松山自動車道の下をくぐる。道に沿って川が流れているが、水がとてもきれいだ。一匹の猫が道際の藪の中からこちらを見ていた。 ゆるやかな上り坂が続き、道がうねり始めると周囲に民家もなくなり、路面の舗装が徐々に荒れてくる。道幅は狭くなり、川の中の岩も大きくなる。 湯浪という地名の場所を歩くが、とくに温泉が出ているとかそういうことはないようだ。ごく稀に車に追い越されるが、人は歩いていない。勾配12%の標識が現れ、 急に傾斜がきつくなる。もう少し歩くと県道147号線は急に山に遮られて行き止まりになり、道の脇の少し高くなった場所にちょっとした駐車場と休憩所、 トイレがある。湧き水が出ており、地元の人が車にタンクを積んで汲みに来ていた。駐車場の脇に人しか入れない登山道の入口があり、そこには「悪路通行注意」の看板が立つ。 「危険と感じた場合はすぐに引き返してください」と、赤い文字で書かれている。
■そんな登山道からいよいよ山道へ入ってゆく。ところどころ細い水の流れがあり、岩肌を滝のように流れ落ちている。。大きな木々に日の光がさえぎれられ、 天気のいい朝なのに暗い場所も多い。大きな杉の木があちこちで倒れ、山道をふさいでいる。時には倒木をまたぎ、時にはくぐる。 何度も何度も折り返しながら一歩ずつ前へ、上へと進む。何度か立ったまま、時には腰を下ろして休む。水の流れる音がかなり低い場所からしか聞こえなくなり、 歩みを止めると自分の呼吸の音しか聞こえない。時々、残り距離が標示された看板があるが、その数字がなかなか減らない。ふと気がつくと前方の景色がうっすら白い。 雪が薄く積もっていた。かなり標高が上がってきたのだろう。空気もずいぶん冷たくなってきた。最後の登り、階段の道を上がり、木々の間から大きく立派な山門が見えた瞬間は、 やっと着いたか、と安堵した。四国八十八箇所霊場の札所のうち、二番目に高い場所にあるのがこの60番、横峰寺で、標高745m。冬季は基本的に自動車道が閉鎖されるらしく、 歩きでしかたどり着けない寺だという。たしかに境内には登山の格好をした者が数人いたくらいでしんと静まっている。雪も道中より深く積もっている。 上着を脱いで納経をすると寒い。納経所では、歩いて来なさったか、と声をかけられた。寺自体はそれほど変わったところはなく、オーソドックスなタイプのお堂がいくつか並んでいた。
■横峰寺を後にし、次の寺を目指す。距離は10kmあるが、目指すのは町の中の寺なので、登ってきた山をひたすら下っていくわけだから楽だろうと思っていたが、 歩いても歩いても山の中でなかなか町に着かない。下りばかりだと思ってたのに途中けっこう上る道もあり、なかなか大変だった。上るときは体力的にきついが、 下るときは、重い荷物のせいもあって膝が痛くなる。皇潤や痛散湯をありがたがる気持ちが少しだけわかった。途中、ぽっかりとそこだけ木が伐採されていて景色がひらけているところがあって、とてもいい眺めだった。 そこで少し休む。野宿道具一式を背負って遍路をやっている男性が先にそこで休んでおり、少し話をした。彼は大きな荷物を背負って先に歩き出して行ってしまった。 いずれスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼の道を歩きに行きたいがスペインは今経済的に不安定でとても治安が悪いから不安だ、ということも言っていた。 歩き続けてようやく舗装路に出る。さらにしばら歩くとようやく人の気配のある場所までたどり着いた。香園寺奥の院というひっそりとした寺がぽつんと建っていた。 周囲は秋の紅葉が美しいということが書かれていた。朝早くに山に登って、降りてきたらもう午後2時を過ぎ、一日のかなりの時間を山の中で歩いていたのだなと思った。
■横峰寺から3時間かかってようやく61番札所の香園寺に到着。寺という言葉からイメージする建物からはかなりかけ離れた大きな建物がどんと建っている。 市民会館か、あるいは下手すると新興宗教の施設みたいだなという印象の寺院で、靴を脱いで中に入ると2階がホールのようになっていて座席もたくさん設置されている。 そこに本堂と大師堂がある。読経すると声がホールの中に響き渡って変な感じがする。ここは子安大師と呼ばれ、安産祈願の寺として有名なのだそうだ。 建物から察すると、かなり儲かっているのだろう。納経所は広い建物の一角にあり、中の様子は職員室みたいだった。ベンチで少し休憩。足を休め、 荷物の中から適当に口に入るものを探して食べる。寺の正面の参道から国道11号線に入り、朝早くに通った伊予小松駅からほど近い場所にあるのが62番札所の宝寿寺である。 香園寺からは2km弱だった。交通量の多い国道と予讃線の線路に挟まれた少々騒々しい場所にある寺で、こぢんまりとした境内に本堂と大師堂が並んで建っている。もう一つある大きな屋根のお堂は工事中だった。 納経所には「昼12時から1時までは休憩をいただきます」と紙が貼ってあった。
■国道11号線を東へ。歩道がない部分もあり、大きな車が後ろからくるとびくっとする。宝寿寺からは1.5kmほどで63番札所の吉祥寺に到着。1.5kmくらいだとあっという間で着く。伊予氷見駅からすぐ近くのところにある。 このあたりの地名は「寺の下」となっており、おそらくこの吉祥寺があることからつけられたのだろう。山門の前には狛犬のように二体の石製の象が向かい合って置いてある。 四国八十八箇所霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所はこの吉祥寺だけなのだそうだ。門の周りを近所の老人と思われる数人が掃除をしており、 挨拶をすると若いのにえらいねえ、と言われた。参拝が終わった頃には日が低くなってきていた。次の札所を目指す。朝日町交差点から少し南に向かい、 国道と平行に通っている、車の通行量の少ない道を歩く。讃岐街道という昔からの道のようだ。古い家並みの残る道を時々小さな川を橋で渡りながらひたすら東へ。 子供達が遊んでいる。石鎚神社の大きな鳥居が見えてくる。そこから少し歩いて64番札所の前神寺に到着。吉祥寺からは約3kmの道のりだった。石鎚山の山裾に建ち、 その名前からもわかるが、すぐ近くにある石鎚神社との関係の深い寺なのだろう。少し調べてみると多くの寺院が神仏習合やら明治の神仏分離令にふりまわされていることがわかる。
■広い境内で、一番奥まった場所に本堂がある。新年を迎える準備の作業をしている者が二人いるだけで、他には既に参拝客もいなかった。 山のふところに抱かれたようなロケーションで、両側に回廊を従えた堂々とした本堂だった。納経できる時間が夕方5時までで、納経所に着いたときはけっこうぎりぎりの時間になってしまった。 既に日は沈みかけ、きれいな夕暮れ空になっていた。石鎚山駅まで1km弱歩く。小さな無人駅だった。のどかな田園の中にホームがある駅で、 見上げると白く丸い月がのぼっていた。この晩は伊予三島駅のそばにあるホテルに泊まった。前日には距離では及ばないが、この日は5つの札所を回り、27kmあまり歩いた。 大半が山道だったのでなかなか苦労した。
No.1723 2012-12-26
南光坊への道

仙遊寺への道からの風景

五郎兵衛坂

伊予富田駅

今治城
冬の遍路二日目。

■この日は夜明け前の予讃線大西駅から遍路スタート。無人駅だった。小さな駅舎で、正面入口がとんがった三角屋根になっている。 冬に九州に行ったときも思ったが、西日本では夜明け前の真っ暗なうちから部活の中高生が外を歩いてる。 北海道や関東と比べるとずいぶん夜明けが遅い。駅前には古く小さなビジネスホテルが一軒。まずは4km、 今治街道を東へ歩く。大きなバイパス国道になっていて、大型トラックがたくさん走る。 道沿いには時々溜め池がある。バイパスから分岐する旧道に入り「延喜」という交差点を過ぎて北に曲がると54番札所の延命寺に到着。 老人が好みそうな名前の寺だ。朝のすがすがしい空気である。朝早くから参拝者が他に二、三人いた。この寺の山門は、 今治城の城門を移築したものなのだそうだ。
■裏手にある墓地の脇の小路を抜け、小高い丘を越える。このあたりは今治市内で、市街地中心部に向かって歩くと徐々に大きな建物が増えてくる。 病院が多いように思った。あるマンションの前で老人が車椅子のままマイクロバスみたいのに乗せられていくところを見た。生きてるんだか死んでるんだか わからんような老人だった。デイサービスセンターみたいな場所に行くのだろう。ああはなりたくないと思う。川沿いの道を北へ向かい、 JR予讃線の高架をくぐるとまもなく、国道317号線に面した場所にある55番札所の南光坊に到着。前の札所からは約4kmだった。町の中心部に近い場所にあるのに、 広々とした境内を持つ寺で、88ある札所のうち、ここだけ「坊」という名前である。しまなみ海道の大三島にある大山祇神社と関係の深い寺なのだそうだ。 山門は大きく立派で、市街地にあるせいか近所の人らしき者たちが手を合わせに来ているようだった。 歩いてる間は感じなかったが、徐々に日も高くなってきてるのに空気が冷たくて寒い。
■南光坊を後にし、今治駅の近くを通る。この場所は5年前、一日かけて尾道からしまなみ海道を自転車で走って夜にたどり着いた場所で、 駅の正面の風景を見た瞬間、あのときの記憶がどんどんよみがえってきた。丸一日自転車で走り続けてから食べたうどんがおいしかったこと、 駅の近くの銭湯へ行ったら男湯には自分ひとりだけだったこと、スーパーで買い物をしたら「おいしいおなべ〜」とかいう歌が店内でエンドレスでかかっていたこと。 どうでもいいようなことをよく覚えていたり、何かのスイッチで不意に多くのことを思い出したりするから人間の記憶というのは不思議だ。 今治の町は、城下町だった名残なのか、碁盤目の区画割りが広い範囲に広がっていて、交差点は多いが、遠くまっすぐ見通すことができる。 南西方向へ歩く。途中、アメリカンショートヘアという種類だと思うが、人懐こい猫が一匹歩いていた。遠くからも見えていたイオンの近くを通り、 国道196号線を横断。南光坊から約3kmで56番札所の泰山寺に到着。日当たりのいい明るい境内の寺だった。
■南東方向へ歩く。徐々に中心市街地から離れ、のどかな風景に変わってゆく。タオルで有名な町らしく、途中いくつかのタオル工場があった。 細い路地を抜け、蒼社川に架かる橋を渡り、田んぼのわき道をしばらく進むと山裾の坂道があるので、そこを登ると忽然と目の前に現れるのが57番札所の栄福寺である。 境内は地形の制約があるのであまり広くはない。栄福寺は田園地帯の真ん中にある小高い山裾に建っているが、その山にはこの寺のほかにも神社が三つ、 寺が一つあり、古くからこの地域における信仰の地だったのだろう。ここの住職さんは若い人で、かつて「ほぼ日刊イトイ新聞」で連載記事を書いていたらしい。 納経を済ませて寺を後にし、犬塚池の外周をぐるっとまわりながら上がってゆく。木々の間の傾斜のきつい遍路道を登り、アスファルトの道に出る。 上へ上へと歩く。遠くに海沿いの造船所の大きなクレーンが見え、瀬戸内海、そしてしまなみ海道の来島海峡大橋が見渡せる。
■朝から歩き続けた脚に、長く続く坂道はかなりこたえる。ようやく寺の山門が見えたと思ったら、そこからさらに長い石段が続く。 前日、52番の太山寺で買った杖をつきながらよいしょよいしょと一歩ずつ、時々休みながら上がる。標高300mの山頂にあるのが58番札所の仙遊寺。 栄福寺からの距離は3kmほどなので大したことはないが、ここの登りはなかなか苦労した。なるほど、仙人が遊んだという名前も納得してしまうような景色のよさである。 境内では新年を迎える準備が進み、「厄飛ばし」という行事が行われるらしくその時に火を燈すのであろう柴のかたまりがブルーシートにくるまれて置いてあった。 参道の石段の途中には「弘法大師の御加持水」と書かれた井戸らしきものがあったが、水は出てなかった。納経後、境内のベンチでしばし休憩を取る。 天気はいいが風が冷たく、上着を脱ぐと体がすぐに冷える。登ってくる途中、やたらと「駐車場は有料」といった趣旨が書かれた看板を見かけた。 納経所でも「車ですか?歩きですか?」と聞かれた。駐車料金に関しては厳格な寺のようである。石段を下る。
■遍路道に入り、五郎兵衛坂という急坂を下る。車道に合流し、交差点で道を確認していたら車がすーっと寄って来て、男性が降りてきた。次の寺はあっちの方角だ、 と親切にも漠然とした情報をくれた。まっすぐしばらく北東方向へ道なりに歩く。国道196号線との交差点にあるコンビニエンスストアに立ち寄り、 軽めの遅い昼食。予讃線の線路と並行する県道156号線とのT字路を右に曲がる。JAの建物を新しく建てている工事現場の前を通り、 国分橋を渡る。川の両側はちょっとした集落があり、道沿いにスーパーマーケットや銀行、郵便局などがある。仙遊寺から6kmの距離ほど歩き、 59番札所の国分寺に到着。国分寺という寺は四国八十八ヶ所霊場に4つある。徳島、高知、香川、そしてここの愛媛の国分寺である。 朝から23kmほど歩き続けてきたので疲れはあるが、それ以上に肩が痛くなった。30リットルのバックパックに荷物をいっぱい詰めたのを背負ってたのが重かった。 境内で荷を下ろすと体が軽くて楽だった。寺はちょっと高くなった場所にあり、予讃線の二両編成の列車が田園地帯の中をごとごとと走っているのが見えた。
■国分寺を後にし、来た方向へ戻る。2kmあまり歩き、伊予富田駅から今治まで列車で戻る。今治駅から北東方向にある今治城を見に行った。 古いホテルの前に一匹の猫がいた。今治市役所の庁舎は工事中だった。商店街があり、「ドンドビ交差点」という奇妙な名前が書かれた表示が目に入る。なんだこれはと思って後から調べてみたら もともと「呑吐樋」だそうだ。川をさかのぼって押し寄せる海水を呑んだり吐いたりする樋門という意味らしい。かつて今治城の外堀がこのあたりにあった名残のようだ。 ひときわ大きく目をひく今治国際ホテルがある交差点を左に曲がる。古いカメラ屋や銭湯がある通りをしばらく歩くと今治城が見えてきた。 堀は海水を引き入れているという全国でもめずらしいタイプである。端正な天守は昭和55年にコンクリートで再建されたものである。日本100名城。 天守を望む場所には馬に乗った藤堂高虎の像がある。関西弁のおやじが、こちらの姿を見て遍路をやってるとわかったようで、一日どれくらい歩くん?とか聞いてきた。 今治駅まで戻る途中で信号待ちをしていたら自転車に乗ったおばちゃんに声をかけられ、お遍路さんやろ、これ持っていき、とスーパーの袋からかまぼこをくれた。 今回もこんな御接待をいただきありがたい気持ちになる。パッケージには「今治名産 すまき 二宮かまぼこ」と書いてあった。夜、ホテルで食べたら淡白でおいしかった。 夜は伊予西条駅前の小さなホテルに宿泊。この日は6つの札所を回り、お城を見に行ったのも含めて30kmちかく歩いた。
No.1722 2012-12-25
繁多寺

松山観光港からのフェリー

太山寺山門からの風景

梅津寺駅
冬の遍路一日目。

■朝いちばんの新幹線で岡山まで。東京発の東海道新幹線はいつも混んでいる。時速300kmでぶっ飛ばす物体に大勢の人間が詰まっている。 新大阪や新神戸でたくさん降りていった。岡山で特急に乗り換えて松山まで。夜明け前に家を出て、松山に着くと既に昼を過ぎていた。駅の店でじゃこ天がのったうどんを食べる。うまい。 歩いて伊予鉄の大手町駅まで行って横河原線の電車に乗り、久米で下車。前回、10月の八十八箇所霊場巡拝はこの久米駅で終了だったので、 ここから再開である。まずは50番札所、繁多寺へ。予報では晴れだったはずなのに少し雨が降っている。北へ向かって交通量の多い道を歩く。 歩道がない。途中、住宅街や墓地の中の細い道を抜け、小高い場所にある溜め池のほとりまで行くと繁多寺があった。駅からは1.5kmほど。本堂の背後に小さな山がある。境内からの見晴らしはよく、 松山の中心市街地が見える。他に三人組の参拝客がいただけで、静かだった。次の51番は以前既に行ってるので、とばして52番へ向かう。久米駅まで戻り、 松山の北西方向にある高浜駅まで。
■高浜駅は海に近い終着駅で、入口正面の三角屋根が印象的な、古い学校の校舎のようなたたずまいの木造駅舎だった。この駅から、 海を挟んで対岸にある広島県の呉や九州の小倉行きのフェリーが発着する松山観光港へのバスが出ている。その観光港がある北の方向へ歩く。 大学生くらいの者達がジョギングで追い越していく。海沿いの大きな道から一本奥に入った狭い道をゆく。海の近くだからなのか、思っていたよりも風が冷たく寒い。 民家と、たまに商店がある集落を抜け、自動車専用のトンネルの脇にある小道から山へ。あまりこのルートで寺まで歩く者がいないのか、 笹などの草がかなり伸びていて、荒れている印象を受けた。地図で見るとなるほどこちらは裏道のようである。高浜駅から2kmあまり歩いて52番札所の太山寺に到着。 登りだったので、距離のわりには長く感じた。大屋根のある堂々とした本堂は鎌倉時代の建立で、国宝になっている。納経所は境内から少し山を下りたところにある。 朱印をしてくれた寺の人は、ここ最近はかなり寒いから気をつけて、といった旨のことばをかけてくれた。重要文化財になっている寺の仁王門からまっすぐ伸びる細い道の両脇には、門前町らしいたたずまいの古い民家が建ち並んでいた。
■伊予鉄の梅津寺駅まで3kmばかり歩く。ちょうど日没時間で、海に沈みゆく太陽が見えた。電車で大手町まで。JRの松山駅の近くにあるホテルへ。 この日以後、少し高い山の上まで行くことを考えると、今回用意した上着では少々心許ないと感じたので、guで一着、安い上着を買った。 伊予鉄の松山市駅周辺についてはあまりわからないが、JRの松山駅のほうは、これで4度目の宿泊なので、周辺のどこになにがあるかというのは少しわかっていたから、 無事に買い物もできた。町はまだクリスマスの雰囲気が残っている。
No.1721 2012-12-16
■衆議院議員選挙の投票日だったので、午前中に近くの小学校へ行き、投票してきた。いつになく投票所には人が多かったように感じたが、 それでも前回の選挙よりも投票率が低く、どうしたものかなと思う。最高裁判所裁判官の国民審査も同時に行われたが、 いかんせん情報が少なく、誰に×をつけるべきなのかよくわからない。一人に長くやらせないほうがいいという考えから、 全員に×をつけるという人もいるようで、それも一つありかなと思う。
■夜になり、選挙の速報をぼんやりとラジオで聞いていた。大方の予想通りの結果となり、まあこうなるわな、という感想しかない。 右傾化、とかすぐにヒステリックに言われるが、右傾化することが悪なのだろうか、とも思う。きつい言い方をすると、 いまや商業主義に首までずっぽりと陥ったマスコミや、権威主義と結託した日本の左翼にまともな本物のリベラルなんていないように思う。 ただ進歩主義とかエリートとか呼ばれたいだけか、単なる中国や南北朝鮮のスパイみたいのばっかりだ。 自国の利益や領土や国民を守れない政府は要らないし、ずっと先にしか実現できない脱原発よりも、明日食う飯のほうが大事だという判断はよく理解できる。
No.1720 2012-12-15
フクダ電子アリーナ
試合前のフクダ電子アリーナ。

坂本引退セレモニー
坂本選手の引退セレモニー。

■あいにくの小雨。電車で蘇我まで。天皇杯の四回戦、ジェフユナイテッド千葉対福島ユナイテッドの試合を観戦。先月の国立競技場とは違い、 雨の日の試合でもここのスタジアムは客席に屋根があるので、前方の席を選ばなければぬれることはなく、楽である。気温は低めで、客もそれほど多くはない。 福島ユナイテッドは、J1を一部、J2を二部、JFLを三部とすれば、さらにその下の四部に相当するリーグに属するが、来季からは三部のJFLへ昇格することが決まっている。 天皇杯二回戦、三回戦ではJリーグのクラブである新潟や甲府を破り、ベスト16まで勝ち上がる快挙を見せている、勢いのあるチームだ。 地元福島出身で、長くベルマーレや水戸で活躍した時崎悠が監督を務めている。
■福島のチームであるため、昨年の震災以来、活動に様々な困難があっただろうことは容易に想像できるが、そんな中でJFL昇格を成し遂げたのは立派だ。 試合は地力の差を見せた千葉が5-0で勝利。得点差ほど一方的な展開ではなかったが、後半なかば過ぎからは福島の選手の足がぴたっと止まってしまった。 それでも、何点とられても福島の選手は必死でボールに食らいつき、時折鋭い攻撃を見せる好チームであった。試合後は福島の選手達が千葉ファンが陣取る ホーム側ゴール裏席前まで来て挨拶をし、それに対してスタジアム全体からは福島コールが起こった。天皇杯らしい場面である。
■試合終了後、ほどなくして、今季限りで現役を引退する坂本選手の引退セレモニーが行われた。ゆずやミスターチルドレンの曲をバックに過去の映像を振り返るという、 なんともよくありがちな構成だったが、クラブに長く貢献してくれた選手をこうやって送り出せるというのはいいことだ。福島を応援しに来た者達もセレモニーまで残り、 あたたかく拍手をおくってくれた。坂本はそれに応え、福島側のゴール裏にも足を運び、なにか言葉を交わしていた。
No.1719 2012-12-08
腹を見せる猫
腹を見せる猫。

■自転車で走るにはいい季節になった。また茜浜まで。富士山はぼんやりと霞んで見えた。猫が二匹、場所をめぐっての唸り合いをしていた。 東京湾沿いにある工業地帯の煙突からは真上に煙が上がる。風があまりない日だった。ビバホームまで行って少し買い物。 帰り道、ビバホームから少し東にいったところにあるローソンの近くの路上に猫が一匹いた。近寄っても逃げずに地べたでごろんごろんとして腹を見せてくるので なでてやったらしばらくまとわりついてきた。
No.1718 2012-12-02
茜浜の猫

茜浜の猫
茜浜の猫。

■12月になっていた。
■年々、齢を重ねるごとに時の経過が加速度的にスピードを増しているように感じる。 あっという間に大晦日が来て、正月が来て、節分が来て、桜が咲いて、梅雨が来て、長い夏が来て、短い秋が来て、また大晦日が来る。 その繰り返しをあと何十回かやり過ごしたら死んでいく。
■自転車で茜浜。もう秋も終わりで、木の葉もずいぶん落ちている。海辺からは富士山が霞んでうっすらと見える。風はあまりなく、陽射しはあたたかい。 猫達も日の当たる場所でのんびりしていた。
■話は変わる。先日函館の実家へ行ってたときに、本を一冊買った。函館では地元本をときどき買う。函館に関する本がたくさん売ってる。 観光案内的なものもあれば、地元の人向けの店情報がたくさん載ってるのもある。写真中心のものやエッセイもあるし、函館が舞台になっている小説もある。 幕末の歴史ものもある。今回買った一冊は「新函館写真紀行」という書名で、新函館ライブラリという、聞きなじみのない出版社のものだった。 A5版くらいで、ページ数はあまり多くない。町の風景の写真がページの大部分を占め、端に文章が書いてある。
■著者は大西剛という人だった。京都から函館に移住したのだそうだ。そういう人の目から見た函館の風景を写真と文でつづっている。 とてもいい本であった。そんな中に「テレビに雑誌、インターネットも加わって、膨大な旅情報が流される。観光旅行の観光は『光を観に行く』の意味だそうだが、 旅情報が溢れるほどに、旅はメディアで得た情報を確認するための行為に姿を変えていくのかもしれない」という一文があった。 自分がいままでやってきた旅行も、かなりこれに近いものだなあと思った。それが悪いというわけではないが、いろいろ考えさせられる。
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