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No.1664 2012-1-30
■午前に寺へ行き、納骨をした。親族等が集まると、 いまだに3月11日の地震の話になるときがある。あのときはこうだった、こっちではこうだった、という話をする。 東京人を中心とした被災ごっこが滑稽だった、とか。 どうでもいいが「3・11(サンテンイチイチ)」という言い方が、なんとうなくいけすかないというか、 気取ってる感じがしていやだ。
■納骨が終わってからまっすぐ年金事務所へ。父が入院していた病院のすぐ近くにある。 建物の中に入ると、けっこう人が来てる。順番待ちの番号札をとって椅子に座る。 窓口がいくつもあって、老人がなにかぐだぐだ言っている。順番を待ってる間、 窓口のほうから聞こえてくるのはだいたい「それだけしかもらえないの!?」みたいなことばっかり言ってる老人の声。 欲深い、浅ましい老人だらけである。 対応してくれたのは若い男性で、感じもよく、わかりやすく説明してくれた。 全部理解できたわけではないが、まあそんなものだろうなという母の年金受給額の説明を受ける。 遺族年金、障害者年金、老齢基礎年金、寡婦加算、いろいろある。 資料をもらい、年金関係の手続きはだいたい済んで、帰宅。
■昼間、少し気温が上がって、道路の雪が少しとけていた。 それにしても、こんなに長く函館にいるのはひさしぶりだ。丸一週間いた。
■夜の便で羽田へ。冬の平日だからか、空港行きのバスは空いていた。 航空機も空席がそこそこあった。羽田空港も、人が少なかったが、津田沼行きのバスは混んでいた。 ひさしぶりに自宅。
No.1663 2012-1-29
■日曜日だった。
■前日、告別式が終わって、会場に供えられた花や供物を実家に運んでもらって、 遺影とお骨をたくさんの花で豪華に囲んでもらった。花や園芸が好きだった父も喜んでいたのではないか。 ようやく、午前も午後も、とくになにもない日で、ゆっくりできた。
■午後からは山下達郎のサンデーソングブックを聞いた。全国ネットの番組なので、どこにいても聞けるのがいい。 ソングライター特集の二週目だった。前はジャック・ケラーの特集だったが、今回はジョージ・フィショフという作曲家の作品がたくさんかかった。
No.1662 2012-1-28
■朝からよく晴れているが、やはり寒い。この日の最低気温は-15℃だった。 午前の早い時間からの告別式なので、朝には迎えのバスが来た。 外に出ると、空の光が地面の雪に反射してまぶしい。前日と同じ会場で式が行われ、 通夜に来れなかった人も数人来ていた。式が終わってから会食。食べきれないほどの料理が出て、 腹が苦しかった。
■これで葬儀は一通り終わった。子としてはどうにか最低限のことはできたのかなと思う。 実家に戻り、やれやれと着替えてのんびり、と思っているとぱらぱらと弔問の来客がある。 母の友人が来て、前日の通夜の会場で撮った写真を持ってきてくれた。
■曜日の感覚がいまいちつかめてない日々だったが、この日は土曜日だった。だからなんだというわけではないが、 いつのまにか週末になっていたのだなと思った。
■葬儀があって、親族や普段なかなか会う機会の無い人たちと会って思ったのは、 もし誰かが病に臥せったら、生きているうちに、しかも、なるべくなら会話ができるうちに会いに行かなければいけないなということで、 亡くなってから駆けつけても後悔が残る。
No.1661 2012-1-27
■予定通り、朝刊に父の死亡広告が載っていた。ぼやぼやしていたら、朝から弔問に来てくれる人や電話をしてくる人が結構いて、 新聞の影響力はまだまだあるのだなと思った。近くの人や遠くの人も来た。知らない人も来る。
■函館は、他の地域とちょっとちがう風習というのか習慣というのか、そういうのがいくつかある。 赤飯に甘納豆、とか、結婚式が会費制、というのは北海道のかなりの地域に共通しているが、 お盆が7月だったり、七夕にはお菓子をもらって練り歩いたり、というのは函館ならではの特徴的なもので(7月盆は各地に結構あるが)、 葬儀に関して言うと、先に火葬してから通夜、というのがある。これは函館と、東北の数箇所にしかないらしい。 普通は葬儀で遺体を囲み、別れを惜しんだあとに火葬、 となるのだと思う。だから他の地域から来た人は、先に焼いてしまうというのを知るとびっくりする。 どうしてこういう風になったのかははっきりわからないらしいが、過去の函館での大火や洞爺丸台風などのときに、 大勢の人が亡くなって葬儀が間に合わなかったことがこの風習の由来なのではないか、という説があるようだ。
■なので、通夜の日の昼間に火葬場へ行き、お骨にした後に夕方から通夜を執り行うことになる。 こういうのを「骨葬」というらしい。
棺をかついで家から運び出し、車に載せる。親族の多くがバスに乗る。葬儀社の計らいで、釣り好きだった父のために、 海沿いの道を通ってくれたが、吹雪で海もなにもほとんど見えなかった。 函館山の裏手にある斎場に到着。他にも2件ほど、同時刻に火葬があるようで、大勢でカトリックの歌を歌っている部屋もあった。 火葬前のお経が済んで火葬炉のある部屋へ移動。最後に顔を見て、棺は炉内へ。既に命は無いが、 これで焼かれて姿形がなくなってしまうのだなと思うと、特別な感情が湧く。
■広い控え室で待つ。火葬が終わって、骨を見ると、まだまだしっかりした、太い骨だった。祖母のときはぼろぼろの脆い骨だった。 皆で箸を持ち、骨を拾う。細かい骨の破片の中に混じって、黒く焦げた針金みたいのがある。手術のときに骨を接合するために使われたもののようだ。 父は小さくなって箱に納められた。
■葬儀場で通夜の打ち合わせ。花や供物が思いのほかたくさん届けられていた。祭壇も立派だった。 椅子での参列なので楽である。知っている人や知らない人が思ったよりたくさん来た。 私の友人も何人かわざわざ、寒い雪の中来てくれた。友人というのはありがたいものだなと思う。 来れなかった友人数人の分の香典も持ってきてくれた。母と兄と三人で参列者の方々の見送りをし、長い一日が終わった。
No.1660 2012-1-26
■夜の仮通夜まで特にやることもない。せっかくの平日なので役所が開いてるから、 父の死亡に伴って必要となる住民登録関係、年金や保険等の手続きをやることにした。 朝から寒いし雪がたくさん降っている。一駅乗って函館駅から歩いて市役所まで。 途中、朝市のそばの星龍軒というラーメン屋の前に黒猫がいて、大きな声でないていた。 寒いのになにしてるのだろうと思い、近づいてみようとしたら逃げてしまった。
■市役所の建物に入るのはずいぶん久しぶりで、人は思ったほどいない。 人口30万にも満たない町には似つかわしくないほどの大きな役所で、中に入ると大きな吹き抜けになってる。 1階と2階にあるいくつかの課で証書を返却したり、書類に記入したり、証明書を取ったり、 やれることを一通りやって役所を後にした。役所の人たちはそれほど感じ悪い人もいなくて、 親切な係の人が多かった。
■今回は急いで函館に来たので、着替え等をあまり持って来なかった。駅前のボーニの無印良品で衣類等を買い、 本屋で本を一冊買った。いつのまにかボーニにくまざわ書店が入っていた。 そういえば実家の近所のショッピングセンターに入ってる本屋もくまざわ書店である。津田沼駅にもある。 同じフロアに山野楽器がある。CDとか売っている。函館に住んでいたころ、ボーニの中のレコード屋でビーチボーイズのCDを買ったことがあるが、 あのとき買ったのがこの店だったのかどうかがよく思い出せない。 帰りはボーニの裏のラッキーピエロのそばのバス停からバスに乗って帰った。五稜郭駅前で下車。 雪が強く降っていて着てたものが真っ白になった。
■親族が集まり、仮通夜のお経があげられた。
No.1659 2012-1-25
■寒い日が続く。一年でいちばん寒い時季である。
■葬儀社の人が来て、祭壇や棺、その他諸々を選ぶなどの打合せ、遺影に使う写真を決めたり、 費用の細かい見積もりを出してもらったりした。
■新聞に死亡広告を載せることになり、午後に広告代理店の人が来た。 ユニークなベテラン営業マンという感じで、こちらの身になっていろいろ考えてくれてありがたかった。 新聞に載せるとなると一行いくらという世界なので、けっこう高い。 こうすれば一行減らせる、とかここの文字をけずって詰めるといい、とか提案してくれて、 当初聞いてたよりも2割くらい安くなった。
■夕方に兄が到着。父の遺体と対面して何を思っただろうか。
■納棺師の人が来て、納棺の儀が執り行われた。これがなかなかすごい。 緊張するだろうし、大勢の目の前でへまできないから相当な集中力が必要とされるのは見ててわかる。 顔も体もふいて、顔剃りもして、スプレーのシャンプーみたいなやつで髪もしゃかしゃかときれいにしてもらった。 長いこと風呂にも入れなかったから、最後にさっぱりできただろう。 白い装束に着替えさせるのも、手品を見てるみたいで、バスタオルかなにかを駆使しながら手際よくてすごい。 作業のあいだ、ずっと、りんを鳴らす役目を自分がやることになった。なるべくゆっくり叩いて鳴らした。
■棺には米と10円玉6枚、セブンスターとマッチ、紙パックの酒、以前孫が描いてくれた似顔絵、 いつもかぶってた帽子、よく読んでいた園芸の本などを入れてやった。花をたくさん詰めてもらって、 ドライアイスを仕込んで、蓋をして終了。こういう仕事もあるのだなあと思った。
■本来ならこの日が仮通夜という段取りになるはずだったのだけど、寺の坊主の都合で一日ずれて翌日ということになったので、 あとは特にやることはない。親族がみな帰ってから近くの銭湯にいった。夜はとても寒い。
No.1658 2012-1-24
■朝の通勤中、携帯電話が鳴ったが電車内だったので出られなかった。母からの留守電が入っていたが、 声の調子が普段とちがっていたのでただ事ではないなとすぐにわかった。父の容態が急に悪くなったとの連絡。 電車を降り、上りの電車で引き返す。この日はめずらしく関東でも雪が積もり、交通機関が乱れ、 電車も遅れている。よりによってこんな日に、と思うが天気をうらんでも仕方ない。津田沼から羽田へ向かうために、 遅れ気味の電車で行くか、それともひょっとしたらバスのほうが早いか、でも道路も渋滞しているかもしれぬ、 といろいろ思い悩んだが、結局電車にした。
■JRの快速で品川まで。やはり各鉄道会社は全体的に遅れていて、苛立つ。京急はちょうどこの時間帯、 羽田行きの速達列車がなく、急行しかなかったのでやむをえず乗車。名前は急行だが、ほとんどの駅に停まるのだ。 ゆっくりゆっくり進み、ようやく羽田到着。既に、乗ろうと思っている便の出発時刻の20分前を過ぎていたが、 これを逃すと午後まで函館行きはないので、どうにかカウンターで頼んで、全日空の函館行きに間に合った。冬の平日でもなかなかの搭乗率で、 機内には函館の観光ガイドみたいなのを読んでいる女もいる。雪で各地の航空便も乱れていたようだが、この便はどうにか普通に運航できているようだ。 それほど遅れることもなく、函館空港に到着。正月に来たときよりは寒いし、雪もたくさん積もっている。 空港の目の前には大きな雪だるまが何体か作ってあって、それをバックに記念写真を撮っている者たちもいた。
■病院に着くと、ベッドを囲んで母や親族達がいた。まだかろうじて息がある状態で、目は半分開いているが、 モニターを見ると、脳波は検出されていない状況が続いている。本当のところ、もう死んでいてもおかしくないのだけど、 息子が到着するまではなんとか持たせようと、薬の投与で無理やり心臓を動かしている状況だったらしい。 ときどき父は、大きな口を開けてあくびをしていた。意識がなくとも、体は脳に酸素を送ろうとしているのだろう。 心臓の動きが弱いので、体の末端まで血液がめぐらないから、指先、足は紫になり、ぼろぼろだった。 胸には大きな手術跡があり、体中に点滴や注射の針の跡が無数に残っていて、見るだけでも痛々しい。 神様や仏様がもしほんとにいるなら、父がそんなに悪いことしたか、こんな仕打ちはないぜ、と言いたくなる有様だった。 血圧を上げるために、母は耳元で声をかけたり、腕や肩のあたりを叩いたりする。刺激を与えるといくらか数値に変化がある。 今度は自分があれを母にやってやる番がいつかくるのだろうかと思う。
■モニターに表示される心拍数や脈拍、血圧の数値が徐々に小さくなってゆく。別れの時が徐々に、刻一刻と近づいているのがわかる。 しばらく穏やかな状況が続き、これなら明日くらいまでもつんじゃないか、などと話をしていた。 そんな状況がしばらく続き、あるとき、電池がなくなった機械のように、ふっと、モニターの数値がゼロになった。 呼吸の管がまだ入っているので、体は吸気によって動いているが、静かに息を引き取ったようだ。 医師が駆けつけて、死亡を確認。午後3時58分だった。満68歳。
■人が死ぬというのは、なかなか大ごとで、特に身内は、悲しんでる暇があんまりない。 結局兄は来れなかったし、母の精神状況を察すると、ここは自分が動かなければ、と思った。 兄は関西にいるのだが、関空からの函館便はいま、一日一便しかないので、不便だと思う。 以前は午前と午後に一便ずつあった気がする。 ちなみに名古屋からもいまは一日一便のみで、自分が学生だったころは二便か三便はあった。 そう考えると羽田〜函館間は三社で一日七便あるので、まだ恵まれている。
■まずは葬儀社に連絡。以前、祖母の葬儀でも世話になったところで、母は毎月そこに、何かあったときのために積み立てをしてるというんで、 電話帳で探して連絡。 病院名と病棟、病室の番号、菩提寺の名前や宗派、自宅住所等、いろいろ聞かれる。 医師の部屋で死亡診断書についての説明。それが終わってから各所への連絡。 入院中に病室に持ち込んだたくさんのタオル類や衣類、紙おむつや飲料、マスク、その他諸々を 父の妹夫婦の車に運び、葬儀社が到着すると、病院のベッドから葬儀社の用意した搬出用のベッドに移し替えられる。 死ぬまでは患者だが、死んだ後は遺体なので、病院からはすぐに出なければいけない。
■雪が降る中、大きめの車に父は運びこまれた。世話になった医師や看護婦達が出口で見送ってくれた。 こちらにとっては、身内の死というのは、そうそうあることではないので、いろいろ勝手がわからず、ばたばたしたりするが、 病院で働く人たちからすれば、よくあることなのだろう。いろいろなところで、手慣れているものだなあと変に感心する。 マイクロバスのような車で、実家に向かって市内を走る。このあたりは父の車で通ったことがあるな、とか、 父はここの病院にも世話になったな、と思いながら景色をぼんやり見ているうちに到着。
■母と叔母の一人は先に家に着いていて、父を迎え入れるために、部屋の片づけをしていた。 遺体が運び込まれ、安置された。こんなふうになってうちに帰ってくるつもりじゃなかったのにね、 と母が言っていた。意識あるうちに一度でいいから自宅に戻らせてやりたかったと思う。 父が大事にしていた観葉植物を、母は枯らさないように水をやり、肥料をやっていた。 帰ってきて枯れてたら怒られると思っていたらしい。大きな葉のその植物は、ストーブの横で青々としている。
■葬儀社の担当者と今後のことについて打ち合わせ。葬儀の日取りのこと、費用のこと、会場のこと、その他さまざまなこと。 寺の坊主が京都に行っているため、葬儀が一日遅れることになった。あとは火葬場の予約のことなど。 葬儀社の人が帰ってゆき、親族もみな帰宅。慌ただしかった一日が終わる。この日は何を食べたかとかいまいち思い出せない。 この日の夜は、線香の番をしながら朝方までぼんやりしていた。
No.1657 2012-1-15
茜浜の猫
茜浜の猫。

■自転車で茜浜。富士山はまた見えず。この冬はなかなか、茜浜からの富士山は見えない。 猫達が数匹。以前一度会った、ここの猫達の世話をしている男性とひさしぶりに言葉を交わす。 この海辺で暮らす猫を減らす活動をしている人である。ここの猫達は、外猫なのに長生きしてる、 というようなことをこちらが言うと、長生きさせるために世話してるわけではないんだけどね、と苦笑いしていた。 彼は猫達の糞の始末をしながら去っていった。寒かったのでわざと自転車できつい坂を上って体をあっためたりした。
No.1656 2012-1-06
茜浜の猫
茜浜の猫。

■朝、自転車に乗って今年最初の茜浜。寒いが静かで、雲の切れ間からわずかに陽の光。穏やかな海がきらきらきれいに光っている。 富士山は見えず。猫達が3匹ばかり姿を見せてくれた。
No.1655 2012-1-03
■近所の丹生神社まで行って新年のお参り。
No.1654 2012-1-02
■病院へ父の見舞い。いろいろ話かけてみると少し、目だけ反応する。夜の便で羽田へ。
No.1653 2012-1-01
■新しい年があけた。
■2011年は日本人にとって大きな苦難の年となってしまった。 自然災害や原子力発電所の事故に大きく動揺し、政治や東京電力に憤り、失望した一年であった。 今年は明るいよい年になるといいなと思う。せめて、正直にがんばった者が報われる国になればいいのにと思う。
■今年もどうにか、実家で新年を迎えることができたが、父は今年も病室で新年を迎えることとなった。 正月のわりには冷え込みもゆるく、昼にはプラスの気温となった。おだやかな元日。父の見舞いに行くと、 看護婦さんたちが働いている。仕事とはいえ、大変なことである。父は機械から伸びる管で栄養をとり、 機械につながった管で排泄する。動くのは眼だけで、生きているのは確かだが、そんな状況を見ていると、 どうにも複雑な気持ちになる。
■病院の廊下を歩いていると、いくつかの病室の中が見える。どこの部屋も年寄りが入院していて、 正月だからか、家族連れが多く見舞いに来ている。なんだろうこれはと思う。若い世代が貧しい生活をして、 裕福な老人にさらに年金や保険で手厚く世話してやっている。こんな世の中にした張本人である老人達に、 いい思いをしたままなんの責任もとらずこの世から逃げ切ろうとしている老人達に、である。 長生きさせるのが本当に医療の役目なのだろうか。残酷なことを言うようだが、本人や身内に諦めさせることも医療の役目なんじゃないか。 そんなことを考えた一年のはじまりであった。
■今年も元日に、公式サイトでRISING SUN ROCK FESTIVAL in EZOの開催が発表された。8月10日〜12日朝までの日程ということである。
■帰宅して天皇杯の決勝戦を見ながらラジオでサンデーソングブックを聞く。今年はたまたま元日が日曜日だったので、 山下達郎のラジオがあった。毎年正月は大瀧詠一との新春放談が恒例となっているが、今年はそれはなく、通常通りの番組内容だった。 ラジオを聞いていたら、函館市内に住む親戚が訪ねてきた。夜は地元の友人達とチェーン系の居酒屋に集まって顔を合わせた。 みな元気そうでなによりだった。閉店時間までいろいろ笑って、粒の大きな雪が降るなか帰った。
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