トップ | メール | twitter
No.1652 2011-12-31
■午後の便で函館へ。前日も羽田に来てた気がする。前の日は九州から羽田。今度は羽田から北海道。 やり手ビジネスマンとか、ライブツアーのミュージシャンみたいなスケジュールだが、単なる帰省である。 月の初めにも函館に行ってたので、短期間に二度も行くのは変な感じがする。帰省ラッシュのピークは過ぎたのか、 羽田空港は思ったより混雑していない。一人遅れた客を待ったり、滑走路上を延々20分以上たらたら走ったりしたので離陸は遅れた。 函館空港に着いてバスに乗る。湯の川温泉で降りる者が大勢いた。年末年始の休暇を利用しての旅行客のようだ。 大森町のバス停で降りて、松風町から市電に乗車。予想していたより寒くなく、地面の雪が融けかけている。
■五稜郭にある病院に父が入院しているので、見舞いに。様子を見に行ってみると、前に来たときと同じ部屋にいた。 私が千葉に戻ってから父は肺炎を起こしたり心停止があったりして大変だったようで、食事どころか、言葉を発することもできなくなっていて、 うなずいたり首をふったりという意思表示も既に不可能になっていた。苦しそうな表情でただただ横になり、 機械に生かされている状況である。それでも、声をかけると目だけはこちらを見るので、聞こえてはいるのだろう。 タクシーで実家へ。運転手が話好きなタイプで、めんどうくさかった。大晦日はパチンコ屋は夜7時で閉店、とか、 昔は、深夜、年が明けて初詣に行く客をよく乗せたが、いまは年寄りが増えたから深夜には出歩かないし、 若い人は自家用車で行ってしまう、夜は町から人が消える、函館市内でも町の境界がわかりにくいところとわかりやすいところがある、 とかそんな話に付き合っているうちに到着。
■夕食後、実家近くの銭湯へ。昼間とけていた道の雪が夜の寒さで凍っている。客はとても少ない。この銭湯もいつまで営業できるだろうか、と思う。 小さなロビーみたいなところに置いてあるテレビにはカズが映っていた。
No.1651 2011-12-30
新八代駅にて
新八代駅にて。

折尾駅
折尾駅。

折尾駅内
折尾駅内。

若松の町並み
若松の町並み。

門司港の町並み
門司港の町並み。

北九州空港
北九州空港。

■また早朝に起床。二日続けて夜明け前の出発。ホテルの朝食の時間前だが、ホテル側の計らいで、二日ともごはんを食べさせてくれた。 ありがたいことである。鳥栖駅から鹿児島本線の普通列車で南へ向かう。ふと気づいたが、駅の自動販売機でもSuicaが使えるのがある。 大牟田行きに乗車。車掌は舌足らずで、「発車します」が「はっちゃちます」に聞こえる。車内は朝の下りで、 しかもそろそろ年末の休みに入ってる者も多いだろうから、とても空いている。博多方面から乗ってきていた乗客も鳥栖でずいぶん降りた。 鳥栖から若干乗車があり、久留米駅で結構降りて行った。西牟田駅のあたりでやっと外が明るくなりはじめた。 以前ここで、なんだこの駅名は、と少し話題にした羽犬塚駅でもいくらか降りていった。 新幹線開業で真新しくなった筑後船小屋駅が見える。ガラス張りで、空港みたいな建物だ。こういう真新しい新幹線駅は全国でよく見る。 そしてたいていこういう駅のまわりはのどかな農村の場合が多い。瀬高駅から乗客がいくらかあった。 この列車の終着である大牟田から一つ手前の銀水駅で下車。
■銀水は古い木造の駅舎が残っていて、窓口にはちゃんと駅員がいる。駅の出口のわきには小さな四角いポストがあり、 駅前には乱雑に自転車が並ぶ。向い側に一軒のたばこ屋が見える。薄明るい朝の空に遠くの山並みがぼんやり浮かんでいる。 銀水から、八代行きの始発列車があるのでそれに乗り継ぐ。黄色い2両編成のロングシート車両だ。 銀水発車時は空いててガラガラだったが、次の大牟田から結構乗ってきた。改札口の向こうの山からまん丸のオレンジ色の朝日が昇ってきた。 荒尾駅からもいくらか乗ってくる。どうやら朝の時間帯、人は博多へ向かう流れと熊本へ向かう流れがあるみたいだ。 その境が鳥栖から大牟田あたりなのだと思う。 南荒尾駅から高校生がたくさん乗ってきて、長洲からも少し乗ってくる。大野下駅で数人下車して、高校生が少し乗車してきた。 玉名駅のホームには黒い高校生の集団が見え、彼らが全員乗ってきた。玉名には温泉があるということが駅の広告看板でわかった。 向かいのおっさんが読んでるスポーツ新聞の一面にでっかく「武田」と書いてある。武田が何をしたのかと思ったら、競馬の記事のようだ。
■白っぽい朝もやの中に新幹線の高架が延々と続く。木葉駅からさらに高校生乗ってきて車内がいっぱいになり、外の様子が見えなくなった。 植木駅からもまだ少し乗ってくる。窓が若者の熱気でくもってしまった。崇城大学前駅で、今まで乗ってきた高校生がみんな降りていった。 入試か模擬試験でもあるのだろうか。車内が大人だけになり、しーんとした。上熊本駅で何人か下車し、残ってた大人達は熊本でほとんど下車した。 緑川という大きな川を越えると富谷駅で、三角線との乗り換え駅である宇土駅で数人が下車。松橋駅でも数人下車。 松橋は「まつばせ」と読むらしい。小川駅で4人くらい降りた。有佐(ありさ)駅で数人下車。長時間の乗車で、 新幹線のときのように尻は痛くならなかったが、腰が痛くなった。千丁駅の正面には形のいい竜峰山が見える。 銀水から1時間40分ほどで新八代駅に到着し、下車。
■ホームに降り立ったとき、この駅を訪れた5年前がついこの間のように感じた。記憶が鮮明によみがえった。あのときは駆け足で乗り換えをし、 ここから、九州新幹線の先行開通区間である新八代〜鹿児島中央に乗車した。今回は、今年開通した新八代〜博多間に初めて乗車する。 この区間は、今年の3月、あの地震の翌日に開業したため、開通・開業に関するいろいろな行事やイベントが中止になり、 開業したという華々しいニュースも隅に追いやられたという不運もあった。新幹線の必要性とか公共工事がどうのこうのという話も少なからずあるし、 並行在来線の扱いだとか、新幹線が走ることでいままで便利だった特急列車がなくなって不便になる町の人の声、とか、 まあいろいろある。それは置いといて、震災の後、Youtubeで見た九州新幹線全線開通のコマーシャルはとてもよく、 あのときの暗く重苦しい空気のなかで一つの救いのように見えた。それにしても今回の旅行のなかで一番南に来たわけだが、 この熊本の八代が一番寒い。駅の窓から工業地帯が見える。煙突からは白い煙が出ている。千葉の蘇我の工場地帯に似ている。
■新八代駅には思ったより人がいる。鹿児島中央からの九州新幹線さくらが入線してきた。乗ってしまうと、 書くまでもないことだが新幹線は速い。普通車でも、東海道、山陽や東北新幹線とちがって座席が2列+2列でえらい。 ゆったりしている。熊本まであっという間に着く。熊本からたくさん乗ってくるのかなと思ったがそうでもなかった。 車内販売でコーヒーを買う。そういえば今回の旅行で初めてコーヒーを飲む。250円だった。体がじわりとあたたまる。 昨日訪れた博多南の横を通る。車両基地の様子が見える。博多駅に到着し、これで九州新幹線は全線乗車。 さらにここから山陽新幹線のひかり新大阪行きに乗り継ぎ、小倉まで。短い区間だから自由席にしたが、思ったより混んでない。 上りだからだろうか。帰省は下り方向のほうが多いのかもしれぬ。車内はいきなり弁当のにおいが漂う。 この時点でJR全線のうち、未乗キロ数は二桁になり、路線の数は残り二つ。そのうちの一つがこの山陽新幹線の博多〜小倉間。 17分ほどの乗車で小倉に到着。小倉で降りて、JR西日本の路線は全線乗車終了。今回の九州旅行のスタート地点まで戻ってきた。
■残りは一路線。在来線で、来た方向に少し戻る。荒尾行き快速は乗客がなかなか多いが、座れないほどではなかった。 スペースワールドという遊園地前の駅に停車。スペースシャトルが見える。そのとなりに「1901」と書かれた大きな看板を掲げる工場がある。 かすかに残ってる記憶ではたしか、八幡製鉄所の開業が1901年だったような気がするので、その年のことではないか。 皿倉山が近くに見える。前日、あわただしく乗り換えをした折尾駅で下車。折尾駅は古く煤けているが、北九州らしくていい。 堂々としていてとてもいい建築だ。レンガの通路やモルタル塗りの古い階段など、いたるところに歴史を感じる。 1〜7番までホームがあるが、6番と7番は駅舎から離れた場所にあったり、線路の交差があるので、他のホームも変なところにあったりする。 特急も停車する大きな駅で、駅前を行き交う人や自家用車やバスも多く、大きな商業施設があり、近くには小川沿いに飲み屋街もある。 駅舎は1917年に建てられたものなので、既に100年近くの歴史がある。同じくらいかもっと古い駅舎も日本にはいくつか残っているが、 これだけの大きさの古い木造駅舎は他にはない。外観や階段、通路や屋根などのほかにも細かい部分の意匠や改札前にある黒ずんだ光沢を放つ柱も強く印象に残った。
■そんな貴重な駅舎が取り壊される計画になっているらしい。行政主導のいわゆる駅前地区再開発の一環として、 利便性の向上という名目で計画が進んでいるそうだ。地元では当然、保存に向けた活動が行われているが、 非常に分が悪いのは、この駅舎が文化財指定されていないことだろう。重要文化財、せめて登録有形文化財になっていれば、 いろいろな手続きが必要となり、取り壊し中止、となる可能性は小さくないのだが、おそらく行政側はそのあたりを見越して、あえて文化財登録しなかったのだろう。 私の地元函館でも似たような事象がいくつもある。要するに行政は壊して建てるとお金が入ってくるから、やりたいのだ。 拝金主義が隅々まで蔓延したこの国は自らの歴史を大切にせず、目先の欲に負けて大事なものを次々と捨ててゆく。
■話が少しそれた。それでもまだ折尾駅は目の前にこうやって存在し、町を見守っている。そんないい駅から、 最後の一路線に乗車できることは嬉しい。東口改札の目の前にある1番線から乗車。最後の路線は、 また例のチェック柄座席の車両。通路を挟んで反対の席にはワンカップを手にしたじいさん。ギャンブル系の新聞を熱心に読んでいる。 若松行きの列車は定刻通りに発車。空いている。日本最古の立体交差駅から小さなレンガ造りのトンネルを抜けて北へ。 本城駅は駅前に団地が見える。二島駅の手前で運河の向こうに工業地帯が見える。客どうしの会話を聞いていると、 サテライトがどうのこうのと言っている。競輪か競艇か、そういった話題のようだ。筑豊本線のこの折尾〜若松間は複線になっていて、 駅停車時以外でも反対側の列車とすれ違う。ワンカップのじいさんを含め、船橋競馬場駅前にいるようなくすんだ色の男達は、 奥洞海という駅で降りていった。貨物船荷揚げの大きなクレーンが並んでいる。藤ノ木駅前には訪問介護ステーションがある。 洞海湾を挟んで対岸に見える皿倉山の姿は、函館山に少し似ている。
■石峰山の東裾の斜面に建ち並ぶ家々を左手に見ながら、列車は速度を落として若松駅のホームへ入ってゆく。 列車が停まり、ドアが開く。若松港にかかる大きな赤い橋が見える。若い父親と子供が降りてゆく。ゆっくりと席を立ち、 広く大きく、古くて立派な屋根のあるホームに降り立つ。これでJR全線19981.8kmの旅が終わった。
若松駅は、ホームの先で線路が途切れ、もうこの先には線路がない。駅員がいる。コンクリートの、何の変哲もない駅舎で、 ガラスのドアの上には正月飾りがついている。駅前にはロータリーがあり、タクシーが数台停まっている。駅のとなりにはメガネ店。 大きな橋の見える方向へ海沿いを歩く。市民会館やスーパーマーケット、マンションが建ち並び、海辺には釣り人が数人いる。 それほど大きくはない船がたくさん停泊している。海辺の大きな通り沿いに、石造り等の古い建築物がいくつかある。
■石炭会館は、若松石炭商同業組合の事務所として1905年に建てられた2階建ての建物で、一見、石造りに見えるが、 近づいてみると木造のモルタル塗りであることがわかる。屋根は寄棟で、建物中央の入口上部の庇が小さなバルコニー風になっている。 地味だがきれいに使われていて、古い建物がいまも現役というのがいい。窓はアルミサッシが入っている。この建物は文化財指定を受けていないようなので、 建物の所有者が大切に維持しているのだろう。石炭会館を過ぎると見えてくるのが旧古河礦業若松ビルで、 この建物は美しい姿形が人目をひく。1918年に建てられた煉瓦造で、建物の角に二つある尖塔が特徴的だ。2階建てだが、その尖塔があるため高く見える。 地元住民の寄付金で生き残った、愛されている建物だ。北九州市の所有だが、地元有志の委員会が運営しており、 市の財政負担もいくらか軽減できているというところもいい。雨樋と窓枠が同じ緑色に塗られている。 裏にまわると案外そっけない意匠で、煉瓦造とはいえモルタル塗りの部分も多い。木製のドアのガラス部には「謹賀新年」の紙が貼ってある。 今は公民館として使われているようだ。さらに進むと「上野海運」と看板を掲げている上野ビルで、1913年に建てられた古めかしい三階建ての建物である。 海風のせいなのか、外観はとても薄汚れているように見えるがよく見ると端正なファサードで、完成当時はしゃれたビルディングだったのだろう。 いまなお海運会社の事務所として使われているのに加え、空いているフロアにテナント募集している。古い建物は使ってなんぼである。 いいことだ。映画やドラマのロケにも使われたそうだ。
■上野ビルの向いに渡船乗り場があり、若松湾を挟んで対岸の戸畑との間を結ぶ航路に北九州市が渡船を運行している。 大人片道100円。時刻表を見ると毎時3〜5本の便があり、乗ってしまうと対岸まで3分ほどで着く。船内はそれほど広くはないが、 壁際にベンチが設えてあり、最大搭載人員113人と書いてある。ほんの数人だけ乗せて出航。自動車は湾をまたぐ大きな若戸大橋を渡るが、 徒歩や自転車はこの渡船が便利だ。すぐに着くのだから必要ないと思うのだが、船内にはテレビが置いてあって、去年の再放送という、とんねるずの木梨と日本代表の選手が出てる番組をやっていた。 風景を楽しむまもなく対岸の戸畑側の渡船乗り場に到着。乗り場や船内をきょろきょろしているのは自分だけで、 他の者達はさっさと下船し、それぞれの方向へ歩いていっていなくなった。日常の移動手段なのだろう。乗り場を出ると、 ふっくらした猫が一匹歩いていたが、ガラの悪いおっさんがその猫をおどかしたので、 逃げていった。歩いて500mほど行き、地下道を抜けると鹿児島本線の戸畑駅に着く。快速も停まる大きな駅で、駅前にはイオンやニトリやマンションがある。 門司港行きの列車に乗車。ロングシートの8両編成で、ガラガラに空いている。わずかにいた乗客も小倉でみんな降りていった。 座席下のヒーターが熱い。久しぶりに訪れた門司港駅は相変わらず威厳ある建物で、こちらは重要文化財になっているから保存状態もいい。 旅行や観光らしき者が多く、みなこの駅を撮影している。駅の一角にある店で、前に食べたのと同じふぐのフライの定食を注文。 揚げたてを出してくれるからおいしい。
■前に来たときは駅舎だけしか見ないで去ったので、今回は門司港の町を少し歩いてみることにした。 このあたりは近年「門司港レトロ」といって観光に力を入れているようで、実際、観光客は増えているという。 海辺にいくつも古い建物のある景色は確かに人を呼ぶ力を持っているように感じた。ただ、 せっかくいい所なのにでかいビル建ててしまったり、安っぽい商業施設が海辺のいい場所を占有してしまっているのはやや残念に感じる。 駅を出てちょっと歩くと旧大阪商船という建物がある。1917年、大阪商船の門司支店として建てられたものを復元したのだそうだ。 八角形の塔屋と外壁のオレンジ色のタイルが印象的だ。中はなにかのギャラリーになっているようである。 旧大阪商船の向い、海辺に門司港ホテルがある。一見、時代性の判別がむつかしい、ひょっとしたら古い建築なのかな、と思うような外観で、 外装はきれいに塗り分けられている。調べてみると竣工は1998年。イタリアの建築家による建物らしい。9階建てで、正方形の窓が規則的に並び、 最上部にある大きな丸窓が特徴的だ。ホテルのそばにある煉瓦造の建物が1912年に建てられた旧門司税関を復元した建築物で、 1991年から4年かけて外観の復元工事が行われたとのこと。中に入ってみると内部は鉄骨によって独立した構造となっている。 2007年、近代化産業遺産に認定されたらしく、その旨を示すプレートが設置されている。向かいには国際友好記念図書館というのが建ち、 これは歴史的建造物の複製建築物だそうで、あまり興味を惹かれなかった。北九州市と中国の大連市の友好都市締結15周年を記念して整備されたのだそうだ。 駅の方向へ戻る途中、旧門司三井倶楽部という、軽井沢の別荘地にでもありそうなハーフティンバーの木造建築がある。 1921年、三井物産の社交倶楽部として建てられ、2kmほど離れた場所から1994年に今の場所に移築されたようである。1922年にはアインシュタインが宿泊したということで、 2階の部屋が当時の状態で「アインシュタインメモリアルルーム」として展示されている。1階はレストランになっている。 国の重要文化財。
■復元、外観復元、複製建築物、移築と、当時からそのまま残っているという建物はあまりないようで、 意地の悪い見方をするとディズニーランド的な観光地とも言えるかもしれないが、港湾に隣接した歴史的風の町並みと門司港駅だけでも十分魅力ある土地だ。 逆に、古いものがそのままその場所に残っていることの貴重さ、残すことのむつかしさ、残してきた人たちの苦労の偉大さを認識できる。 そういう意味では若松の20世紀初期のいくつもの建物が現役で使われていることのほうをもっとクローズアップしてもいいのではないだろうか。 門司港からの快速列車に乗車。客は少ない。小倉で下車。入れちがいにたくさん乗ってくる。日豊本線の行橋行きに乗り換え。 小倉から20分弱で朽網(くさみ)駅に到着。朽網駅前から北九州空港行きのバスに乗車。普通の路線バスだった。 客は全部で4人。北九州空港へは、みな小倉あたりからバスで行くのか、それとも自家用車で行くのだろうか。 途中の工業団地前のバス停から2人乗ってきた。大きな倉庫や工場、物流センターのような建物がいくつも建ち並ぶエリアを抜けて海沿いへ出る。 埋立地への長い橋を渡る。橋の歩道をジョギングしている者が見える。空港が見えてくる。空港の駐車場には車がびっしりとまっている。
■今回の旅行は鉄道の乗りつぶしがメインだったが、最後にスターフライヤーの航空機に乗るというのも一つの目的だったんである。 北九州空港もガラス張りで、全国の空港や新しい新幹線駅とよく似ている。少し時間があったので、小さなラウンジで飲み物をもらってのんびり過ごす。 Jリーグ2部のギラヴァンツ北九州にちなんだ土産物も売っている。小さな空港なので搭乗までが楽だ。 初めて乗るスターフライヤー便は確かにインパクトがある。座席数を減らしてでも、一人あたりの空間を大きくとり、 ゆったりしたスペースを確保しているのがわかるし、黒い革張りのシートも落ち着いていて高級感がある。しかも運賃は安めに抑えている。 こういうコンセプトの航空会社が一つくらいあってもいい。もっとあってもいいように思う。 定刻通りの発着だったが、着陸に向けての降下時に後ろにいたガキが嘔吐して臭かった。 夜の羽田はいつになく人が少なく、リムジンバスも空いている。高速も空いていたのでいつもより早く津田沼に着いた。 今回の旅行では、地上では鉄道とバス、鉄道は新幹線、在来線特急も利用したし、バスは高速バスと路線バス、 それに渡船、最後に航空機と、いろいろな交通機関を利用した。
■2004年か、2005年だったか、「18きっぷの旅」みたいなムック本を買ったとき、JRのりつぶしマップみたいのがついてきた。 そのころはまだ、全線乗車なんて考えてなかったから、どこの路線をどこまで乗った、なんて記録はとってなかった。 記憶を頼りにいままで乗った路線を蛍光ペンで塗ってみたら案外たくさん乗ってる。よし、じゃあこれ全部乗ってみよう、と意識し出したんだったと思う。 全線乗車を目指している間に、富山港線は第三セクターの富山ライトレールに移管され、路面電車化された。 おおさか東線が開通し、東北新幹線が新青森までつながったが、そのぶん並行在来線が第三セクター線に移管されてJR線ではなくなった。 九州新幹線が全線開業した。災害で長期運休する岩泉線や名松線、只見線、紀勢本線、3月の震災の影響で運休となった東北のいくつもの路線にも、 たまたま運休前に乗車できたのも幸運だった。達成感というよりも、これからは未乗区間にとらわれず、自由に旅行ができる、という思いのほうが強い。
No.1650 2011-12-29
西唐津にて
西唐津駅にて。

伊万里駅前の伊万里焼
伊万里駅前の伊万里焼。

博多南の新幹線車両基地
博多南の新幹線車両基地。

旧志免鉱業所竪坑櫓

旧志免鉱業所竪坑櫓
旧志免鉱業所竪坑櫓。

筑豊本線桂川駅
筑豊本線桂川駅。

■夜明け前の真っ暗な鳥栖駅から特急かもめ1号長崎行きに乗車して佐賀駅まで。短距離利用だから自由席にしたが、 車内はとても空いている。内装は航空機のようで、上の棚も飛行機のやつによく似ている。 今回の計画を考えてみて、どうしても鳥栖〜佐賀だけは特急を使わないと先々うまくつながらなかったのでしかたなく。 佐賀駅までは特急で17分。ここから18きっぷを使用。まず、まだ乗ったことのない唐津線を目指す。佐賀から西唐津行きの列車に乗車。 高校生やおばちゃんなどがそこそこ乗っている。また明るい紫と黒の細かいタータンチェック座席の列車だった。 九州は日が暮れるのが遅いが、そのぶん夜明けも遅く、7時でもまだ真っ暗で夜のようだ。 でもそのぶん会社や学校が始まるのが遅いというわけではないから、九州だと、朝、真っ暗なうちに家を出て、 帰りはまだ明るいという変な感じになるのかもしれぬ。変と思うのはこちらの勝手で、九州ではそれが当たり前なのかもしれぬ。
■「久保田」という、人の名前みたいな駅から先が初めて乗る唐津線で、長崎本線から直接乗り入れる。唐津線に入った途端、 列車がやけに揺れる。上下に揺れるのだった。路盤がよくないのだろうか。唐津線は久保田〜西唐津の42.5km。 久保田の次の小城駅あたりで、ようやく少し外の様子が見えるようになってきた。 降りる客が多いが乗る客も多い。前日乗った日田彦山線や久大本線と比べて、 景色が広々している。田が多い。そして前日と比べて車内が寒い。東多久駅で上下列車がすれ違い。 高校生が3人乗車。周囲は住宅街。中多久駅で高校生達がたくさん降りていった。 彼らが持ってたバッグを見るとハンドボール部、テニス部、サッカー部などなどの部員のようだ。 沿線の枯れた植物に霜がおりて白くなっている。多久駅前はきれいな公園が整備されていて、山が近くに見えてくる。
■この路線で初めてのトンネルを抜けると山に囲まれた黒瓦の屋根の集落に出る。 「風のふるさと きゅうらぎまち」と書いてある。風のふるさととはいったいどういう里なのだろうか。 厳木と書いて「きゅうらぎ」と読むようだ。これはちょっと読めない。古い木造駅舎で駅名板に柿の実の絵が描いてある。 ここから高校生が数人乗ってきた。岩屋駅からは高校生のほかに通勤風の者も3人ほど乗ってきた。 それほど広くない街道に沿って集落が続き、街道と平行して線路がある。山には煙のような雲がかかる。 道沿いに「FM唐津」という看板が見える。相知駅からは大人達もわりと乗ってくる。年末とはいえ平日だからだろうか。 相知は「おうち」と読む。本牟田部駅は田んぼの中にある。「ほんむたべ」漢字だとべつにどうということはないが、 平かなで書いてみるとなんだか妙な響きである。山本駅で列車すれちがい待ちのため3分ほど停車。 通勤の者達が乗ってくる。古い木造駅舎で、なかなか風格がある。駅前には小さな路線バスが停まっているのが見える。
■春日神社の大きな鳥居が見え、大きな川と広い国道に挟まれた鬼塚駅に停車。 通勤らしき乗客達はみな、次の唐津で降りた。確かに大きな町だ。唐津というと唐津焼が有名で、 静かな焼き物の町を勝手にイメージしてたが、けっこうな都会である。どこの地方も、高校生達はだらだら降りていくが、 この駅でもそうだった。唐津線の終着駅である西唐津に到着。行き止まり線の終点だが、先に車両基地の線路や貨物線が伸びているので、 終着駅という感じはやや薄い。駅の中には売店がある。駅長さんが福岡県・佐賀県内のJRの時刻表をくれた。 西唐津駅からは黄色い車体の伊万里行きに乗車。一両だけで発車を待っている。唐津駅のあたりからは、 左手の小高い山の上に白い唐津城が見える。乗ってきた区間を山本駅まで戻り、ここで6分ほど停車するということなのでホームに出てみた。 外の空気は冷たい。ここから初めて乗車する路線に入る。筑肥線は山本−伊万里間と姪浜−唐津の二つの区間に分断されているという、 ちょっと変わった路線で、合わせると68.3km。山本から南へしばらく走り、立体交差で線路は西へ。 眼下には、さっき佐賀から乗ってきた唐津線の線路が南へ向かって伸びているのが見える。
■まもなく肥前久保駅に到着。老人が一人降りていった。小さな駅だ。西相知駅の周りは広々してる。広々してて本当になにもない。 佐里駅前は、背後に山を控えた小さな集落があり、古い商店が一軒あるのが見える。 駒鳴駅も田んぼの中で、小さな集落がある。老人が二人乗ってきた。朝もやが出ていて白っぽい景色になっている。 大川野駅からけっこう乗ってきた。使われていない古いホームが自然に還ろうとしている。肥前長野駅前にある田んぼのあぜ道に自転車が2台とまっていた。 すごくぼろい駅舎がいまも使われている。何かの立派な石碑が立っている。桃川駅前に単身向けらしきアパートが建っているが、 こういう若者向け風のアパートにはこのあたりの地域で需要があるのだろうか。 しかも目の前は田んぼだ。上伊万里駅あたりまで来ると住宅が増える。終点の伊万里は大きな町で、高い建物も見える。 ここも唐津と同様、焼き物で有名な町で、駅前や道路には伊万里焼の陶器やタイルが飾られている。 JR線はここまでだが、第三セクターの松浦鉄道と接続していて、松浦半島をぐるっと回って佐世保まで鉄路でつながっている。
■伊万里駅前は、佐賀県道204号線と同240号線の交差点のそばにあり、204号線を挟んで東側にJRの駅、西側に松浦鉄道の駅がある。 二つの駅が道路上に設けられた連絡通路でつながっている。道路の交通量は多い。天理教の法被のようなのを着た男が一人、 拍子木みたいなのを叩いて音を出しながらなにかお経みたいな歌みたいな声を出し続けていた。 道路上をまたぐ連絡通路から町並みを見渡すと、ファミリーレストランやコンビニエンスストア、ビジネスホテルやマンションなど、 いろいろな建物があって、寂れた感じはしない。来た路線を戻る。伊万里から唐津行きに乗車。駒鳴駅前の駐輪場には自転車が2台ある。 駅のわきに井戸がある。この駅から若い車掌が乗車してきて車内改札。山本駅でその若い車掌が下車していった。 数分停車してから唐津へ向けて走り出した。唐津線の線路と筑肥線の線路が並行していて、筑肥線は右側に線路がある。 唐津で、筑前前原行きの列車に乗り換え。
■乗り継いだ筑肥線の列車はロングシートの3両編成で、高架線を走るから町並みを見渡せる。和多田駅を過ぎるとすぐ大きな川を渡り、 まもなく東唐津。いつのまにか高架線から地上線に降りている。「虹の松原」という駅があって、いい景色でも見えるのかなと思ったが、 周辺は普通の家並みだった。北側には松林も多い。佐賀県内最後の駅、浜崎駅を出てしばらくするとぱっと景色がひらけて海沿いに出る。 トンネル、海、海、トンネル、海みたいな感じで景色が目まぐるしく変わるが、海は穏やかでいい景色だ。 福岡県に入って最初の駅、鹿家駅で上下列車のすれ違い。それにしても結構長い間海沿いを走って、唐津湾から玄界灘まで、 きれいな青い海の風景が楽しめる。いままで海辺を走る景色のいい路線を選んで乗りに行ってきたが、まだこんな伏兵みたいな路線があったか、と思った。 大入駅は福岡県糸島市にあって、魏志倭人伝に出てくる伊都国の「イト」と音が通じているので、このあたりだったのではないかという説を聞いたことがある。 筑前深江駅は赤い瓦屋根の駅舎だが、石州瓦とはちがう、ふつうの赤色だった。一貴山駅でドアが開くとどこからか、ニワトリの声が聞こえてくる。 加布里駅からたくさん乗ってきた。美咲が丘駅からもたくさん乗ってくる。筑前前原駅で、向いのホームに停車中の福岡空港行きに乗り継ぐ。 筑肥線の列車が直接福岡市営地下鉄の空港線に乗り入れる運用となっていて、途中、天神や博多も通るから、列車の利用者も多いのだろう。 徐々に混んできたが、立ち客はまだそれほど多くはない。
■波多江駅、九大学園都市駅の周辺はマンションが多い。今宿駅から大勢乗ってきた。下山門駅の手前でも海がよく見える。 下山門駅からも大勢乗車。都心が近づいてきてるとわかる。唐津、虹の松原、浜崎、深江、波多江、周船寺、姪浜と、海沿いの路線らしい駅名が並ぶ。 姪浜駅までがJRの筑肥線で、ここから地下鉄線にそのまま乗り入れ。 高架線からまもなく地下線内へ入っていく。空港へ向かうのか、大きな荷物を持ってる者もちらほらいる。 天神駅で大勢降りていった。博多駅で下車。博多南線に乗り換える。
■博多南線は、博多から博多南までの8.5kmだけの路線で、途中駅は無い。最初路線図でこの線を見たとき、なんだこれは、と思った。 調べてみると、山陽新幹線のおまけみたいな線で、博多駅の南にある車両基地までの回送線を旅客線化した路線、ということで、車両基地のある春日市、那珂川町の住民が、 博多まで行く交通機関がバスしかなく、一時間くらいかかって不便だったので、この回送用の路線に乗せてくれと要望して旅客線化が実現したそうだ。 おかげで博多まで10分ほどで行けるようになったとのこと。便利になったんで、博多南駅周辺にはマンションがたくさん建ったらしい。 この区間に乗るには、乗車券190円と、特急券100円、合計290円かかる。先日乗った上越新幹線の枝線になっている越後湯沢〜ガーラ湯沢の区間とよく似ている。 小さなお子さんがもし新幹線に乗りたいとか言い出したら、この博多南線かガーラ湯沢までの枝線に乗せてやれば安上がりだと思った。 博多駅で新幹線の改札を通り、ホームへ上がると、ひかりレールスターの車両が入線してきた。この区間のことはよく知らなかったので、 そんなに利用者いないんじゃないかと勝手に予想していたが、思いのほか乗客が多い。ちょっと古いデータだが、 2009年の博多南駅の1日の平均乗降人員は11820人となっている。また、関門海峡から西、九州島内の山陽新幹線の小倉〜博多間とともに、 この区間もJR西日本の管轄路線となっている。ゆったりした座席のレールスター車両は博多市街を南へ走り、新幹線ばかりたくさん留置されている車両基地が見えてくるとまもなく博多南駅に到着。 短いがこれも未乗路線だったので、これでまた一路線消化できたことになる。
■博多南駅で少し時間があったので、なにか昼ごはんでも食べようかと思ったのだけど、飲食店が見つからず諦めた。 博多まで戻り、在来線ホームへ。鹿児島本線の上り快速列車は少し遅れているようだった。10分ほどの乗車で香椎駅に到着。 急いで香椎線のホームへ。すぐに発車。香椎線は、鹿児島本線と交差する形で、北は香椎〜西戸崎、南は香椎〜宇美の区間に分かれている。 合わせて25.4km。そのうち、北側の香椎〜西戸崎の区間は既に乗車したことがあったので、今回は宇美まで乗車する。 香椎線の列車はガラガラではないが空いてる。高校生がマクドナルドの何かを食べてる。また例のチェック柄座席の車両なので、 この際、この車両の型番だけでも覚えてみようと思って車内のプレートを見てみると「キハ47」と書いてある。 この路線は全体的に駅間距離が短いようで、走り出すとすぐ駅があって停車する。土井駅で列車すれ違い。 沿線の車窓を見ていると、大都市近郊の住宅街を走る平凡な路線で特筆するほどの風景もないが、 沿線にある香椎神宮は由緒ある独特のつくりの神社だというし、宇美八幡も歴史ある神社なので、 この沿線の地域にはまたいつか時間をとってゆっくり訪問したいなと思う。長者原駅は線路が立体交差になっていて、 香椎線のホーム下に篠栗線の線路と踏切が見える。長者原は「ちょうじゃばる」と読む。 午前中に乗った筑肥線の筑前前原も「ちくぜんまえばる」と読む。九州では地名の「原」を「ばる」と読むのが多いみたいだ。
■酒殿駅はのどかな畑の中にある。酒殿は「さかど」と読むようだ。 須恵駅のホームでは、プランターの植物を手入れしてる人がいた。香椎線に乗ってて気づいたのは、 いくつかの駅で駅員が、発車の際ホームで深々と列車に向かって礼をしていたことで、なんだか新鮮でいいものだなと思った。 新原駅で3分ほど停車。新原も「しんばる」。香椎から30分強で終点の宇美駅に到着。香椎線も全線乗車終了。線路が行き止まりになり、 車止めがある。終着駅らしいたたずまいだ。宇美の駅舎は、近くの宇美八幡宮を模したような朱塗りの柱があり、 駅前には高校生くらいの者たちが自転車に乗って集まっていた。 宇美駅からは路線バスに乗車。このあたりは福岡県の糟屋郡宇美町という地域になっているようで、博多駅の南東9kmほどのところだから、 それほど田舎という感じはしないし、福岡空港も近い。乗ったのは西鉄バスという会社の路線バスだが、このバスでは九州地区で流通しているICカードのほかに、 Suicaも使えると書いてある。バスに乗って町並みを眺めていると、途中「百済」という表札のある家があった。乗客は老人が多い。 道路が混んでいたが20分弱で下志免というバス停に着き、下車。西友が見える。北東方向へ細い道を歩いてゆくと、 やけに存在感のある、高くて煤けたコンクリートの構造物が見える。近くまで行くと、想像してたよりも高い。 小高い場所にあるので、余計高く見える。周囲はグラウンドや公園になっていて、子供たちが遊んでいる。
■旧志免鉱業所竪坑櫓。そばに説明が書いてある看板がある。艦船用や軍事工場で使用する石炭を採掘するために造られた施設で、 1943年に完成したというから、完成から既に70年近く経過している。かなり老朽化しているとはいえ、 当時のコンクリートがいまだにもちこたえているのだから立派だ。この地域は糟屋炭田と呼ばれていたようだが、 時代が流れて周囲は炭鉱の名残もまったく消え、ごく普通の住宅街になっている。 1964年に炭鉱は閉山し、現在はこの櫓は志免町が所有し保存活動をしているようだ。 櫓の上部に巻き揚げ機を設置し、地中深くから石炭を搬出していたのだという。てっぺんには避雷針が見える。 高さは47.6m。2009年には国の重要文化財に指定された。町並み越しに見てもかなりの異質な感じを受けるが、 機能のみを追求したその姿はシャープで凛々しい。「form follows function」という言葉を思い出す。 1.4kmばかり歩いて、香椎線の途中駅、須恵駅まで。乗車予定の一本前の列車がちょうど入線してきたので、乗車。
■香椎まで戻り、鹿児島本線の上り快速列車に乗り換え。香椎から福間までの間、今回の乗りつぶし旅で初めて座れなかった。 結構混んでいる。福間駅でたくさん降りていったので向い合わせの席に座ると、向かいに座ってた少年が、 ペットボトルのラベルをびりびりにはがしていた。香椎から35分ほどで折尾に到着。 折尾駅は古い駅で、変な構造をしている。そんな駅の中の変な場所にある2番線から筑豊本線の列車に乗車。
筑豊本線は、北九州の若松から折尾、直方、飯塚を経て原田で鹿児島本線に合流する66.1kmの路線で、 かつて石炭輸送が盛んだった時代には多くの炭鉱用貨物支線が接続されていたが、いまはすべて廃止されている。 路線図を見ると小倉から鳥栖方面まで、鹿児島本線を通らずに行ける迂回路のようにも見えるが、実際は全線を直通する列車はなく、 若松〜折尾、折尾〜桂川(〜篠栗線経由で博多まで)、桂川〜原田の三つの運行区間に分かれている。 以前、新飯塚〜桂川の区間は乗車したことがあったが、あとは全て未乗区間である。
■折尾から南へ向かう列車は3両。そろそろ夕方の帰宅時刻にさしかかる頃で、乗客はそこそこの数。 東水巻駅のホームは道路の高架の下にある。右手の空を見ると、雲の切れ間から夕日が見える。 中間駅を出ると大きな川で、釣り人がひとり糸を垂らしている。筑前垣生(はぶ)駅で数人下車。 畑の中に「メルヘン」というラブホテルが建ってる。鞍手駅にはホームがいくつかあるが、あまり使われていないようだ。 石炭輸送で栄えていた頃の名残で、炭鉱への石炭輸送用引き込み線分岐点が今も残っている。 筑前植木駅は古めかしい木造駅舎だけど自動改札の機械がある。直方に着くまでには乗客ほとんど降りていたが、 わずかに残っていた乗客もみな直方駅で降りていって車内は空っぽになった。少し長めの停車時間があったので外へ行ってみた。 直方は大きな町のようで、調べてみると人口は57000人ほど。かつては石炭産業で栄えたが、現在は自動車産業が発展している。 真新しくきれいな駅で、駅の周辺は工事中だ。新しい駅の基本設計は、JR九州の優れた車両デザインをいくつも手がけた水戸岡鋭治氏。 駅のすぐ前にはバスターミナルの古い建物があり、道路を挟んで新旧の建物の対比がすごい。 新しい駅舎を含めた直方の町のデザインについて、没落した石炭産業の「黒」という色を、ネガティブではなく新しいイメージに、 といったようなコンセプトが書いてあった気がするがちゃんと読まなかったので忘れた。確かに駅舎の外観は黒い。中は白い。
■直方駅は平成筑豊鉄道との乗り換え駅でもある。直方を出ると少しの間、平成筑豊鉄道の線路と平行に走る。 勝野駅で停車し、ドアが開くと畑の野焼きの煙のにおいがする。小竹駅でおばちゃんが一人下車。 この駅で列車のすれ違い。鯰田(なまずた)という変わった名前の駅からは二人ほど乗ってきた。新飯塚から結構乗ってきた。 夕暮れ空に黒いカラスが何羽も飛んでいる。飯塚からも数人乗ってくる。山と空の境目がピンク色できれいだ。 天道駅前には小さな墓地がある。この駅と次の桂川駅には駅員がいた。列車はこのまま篠栗線に入って、博多まで行くが、 ここで下車。グーグルマップで桂川駅のあたりを見たときは、地図に何も表示されなくて、辺鄙な所かなと思ったていたが、 普通の小さな町で、家も店もあるし人もいる。筑豊本線の中でもこの桂川から原田までの間は輸送需要が低いらしくて、 車両一両が一日に8往復するだけのダイヤとなっている。ホームに入ってきた原田行きの車両は、今回、いままでに乗ってないタイプで、 座席が2列+1列になっている。進行方向に合わせて背もたれをばたんとできるやつだった。
■10人足らずの乗客を乗せて桂川を発車。上穂波駅で4人下車。沿線は暗く、道路の街灯だけが点々と見えるばかりだが、 夜でも延々明るいのは、日本中でも一部の地域だけである。筑前内野駅はログハウスみたいな小屋の駅舎で、 ばあさんが一人下車していった。次の筑前山家駅までは距離が長く、途中、冷水峠を越える。下り勾配に入ると結構スピードを出してがたがた揺れる。 筑前山家では乗降客はいなかった。鹿児島本線が近づくと急に町灯りが増える。鹿児島本線は、本州でいうと東海道線のようなもので、 九州の鉄道のメインストリートだ。九州新幹線が全線開業して、沿線がどのように変化していくだろうか。そんなことを考えているうちに終点の原田駅に到着。 原田も「はるだ」である。駅名標を見ると原田は、数年前、太宰府天満宮行くのに使った天拝山駅のとなりだった。 鹿児島本線の快速に乗り換え。夜の下りで、しかも快速だからなかなか混んでる。混んでるといっても東京近辺と比べたらずいぶん楽だが。 10分足らずで鳥栖に到着。九州北部の路線をぐるっとまわって戻ってきた。唐津線、筑肥線、博多南線、香椎線がこの日で乗車終了。 香椎線の帰り、須恵で予定より1本早いのに乗れたおかげでその後の乗り換えの接続が良く、早くホテルに戻ることができた。
No.1649 2011-12-28
夜明駅にて
夜明駅にて。

由布院駅のそばの木
由布院駅のそばの木。

由布岳
由布岳。

大分銀行赤レンガ館
大分銀行赤レンガ館。

■今回は鉄道オタクがひたすら列車に乗ってた話で、観光要素はかなり少なめです。
■早起きして品川から新幹線。外はまだ真っ暗だ。年の瀬がせまってきてるがまだ帰省ラッシュはそれほどでもない。 朝早くから新幹線には早起きの人がいっぱい乗ってる。新横浜を過ぎて空がいくらか青くなってきた。 米原付近での雪の影響で京都、新大阪への到着が5分程度遅れるとのアナウンス。 7時を過ぎてようやく左後方からオレンジ色の太陽が上ってきた。名古屋付近は建ち並ぶ家並みの屋根にうっすら雪が積もっている。 空を見上げると冬らしい筋状の雲。名古屋を過ぎて岐阜方面に行くほど雪が多い。遠くには鈴鹿の山並みが見え、 豊富に水を湛えた木曽川の水面は鏡のように穏やかだ。関ヶ原のトンネルを抜けると一面雪景色。 学校のグラウンドは雪で埋まり、ため池には氷が張っている。京都に近づくにつれて雪は減ってゆく。 東海道の中でも米原あたりだけは日本海側の気候だと思う。
■京都駅停車中、駅の南側を見ていた。八条口側にイオンができたと聞いていたので、本当かよと思っていたのだ。 ほんとにあった。京都駅の近くでよくあんな大きな土地を確保できたものである。新大阪に着く前の乗り換え案内のアナウンスを聞いていた。 「九州新幹線、鹿児島中央行きは何番ホームから…」というのを聞いて、本当に新幹線が九州の南の端までつながったんだなと実感した。 指定席にいたのでわからなかったが、自由席はかなり混み合ってたらしい。遠くに梅田のビル街がかすんでいた。 さらに乗り続けると尻が痛くなる。東京−新大阪間以上の距離を新幹線で移動する人はどれくらいいるのだろう、とふと思った。 聞いたところによると、東京−広島間の移動で、航空機と新幹線のシェアが半々くらいらしい。ということは、 東京−新大阪間だと新幹線のほうがシェアが大きいのだろう。この新幹線は博多行きだが、新大阪を過ぎると少し車内が静かになった。 広島駅を発車したあたりで急病人が出たというアナウンスがあった。だいじょうぶかねと思ってたがそのうち忘れた。 20分くらいしてから、乗車中だった看護師さんに協力をいただいて大丈夫だった、とのことであった。いろんな人が乗ってるものである。 上の棚をみると大きな荷物が多いので、ビジネスというより帰省や旅行客がメインだろうか。徳山の工業地帯からは煙突の煙がもくもく上がる。 新山口を過ぎると落ち着いた赤色の瓦屋根が増える。石州瓦だろう。
■関門海峡をトンネルでくぐり、小倉駅で下車。数えて6度目の九州訪問となる。おだやかな陽気で、九州の空気は柔らかい。 小倉駅の中のちょっとした広場のようなところでは何かテレビのイベントの用意が進んでいて、椅子がたくさん並んでいた。 まだ昼食には早いが、駅構内の店でうどん。ここからは在来線を利用するので18きっぷを使用。 改札口で18きっぷに日付のハンコを押してもらうと若い駅員が「行ってらっしゃい」と声をかけてくれた。 今回は九州の北部に集中して残っている未乗路線を一気に乗ってしまおうという計画で、いくつもプランを立てたがなかなかうまくいかず、 大変だった。というのも、九州北部にはかつて栄えていた石炭産業に関する路線、たとえば炭鉱と港湾部を結ぶような路線が複雑に絡まるように存在していて、 かつてよりもずいぶん路線は減ったのだが、それでも細かい行き止まり線等がまだまだあるのだった。 それでも、九州南部の路線は既に片付けておいたので、2泊あればなんとかなるという計画でどうにか落ち着いた。 まず、2番線から日田彦山線の日田行きの列車に乗車。となりの1番線を貨物列車が通過していく。 日田彦山線は北九州市の城野駅から大分県西部、日田市内にある夜明駅を結ぶ68.7kmの路線で、ほとんどの列車が小倉を発着し、 日豊本線を3駅ばかり南に走って、城野から日田彦山線に入る。沿線にある彦山と路線が目指す先にある日田が路線名の由来となっている。 数年前、夜明〜田川後藤寺の区間は乗車したが、そのときは既に日が暮れていて沿線の景色をあまり見れなかったので、 実質、今回が全線初めての乗車といっていい。
■たぶん指宿枕崎線に乗ったときと同じタイプの白地に青い線の入った車両で、座席の柄が青紫と黒の細かいタータンチェック柄である。 2両編成で、小倉発車時は座席が半分くらい埋まってる。車内は暖房が効いてて暑い。天井に扇風機がついているが、 冬なのでビニールの袋がかけてある。発車してすぐに西小倉。城野では2分ほど停車してからいよいよ日田彦山線に入る。 日豊本線の堂々とした複線からポイントをまたいでカーブしながら単線へ入ってゆき、日豊本線の線路がだんだん遠ざかっていって見えなくなる。 ふと思ったが、こういう移動を自分は道楽でやってるから苦にならないが、 東京からこうやって帰省などする者も実際いるのではないか、と思った。面倒くさいなと思う。いまさら何を言ってるんだと思うむきもあるかもしれないが、 いま気づいた。呼野駅の手前に、山肌が大きくえぐるように削られて白く露出しているのが見えてる場所がある。 石灰岩の採掘跡だろうか。この駅でじいさんが一人降りていった。乗り降りに使われているホームと線路以外に引き込み線の跡が見える。 小倉あたりから乗ってた客はまだそこそこ乗っている 。呼野駅を過ぎて少しの間、人家が途絶える。トンネルもある。 採銅所という、銅を採るところがあるんだろうなとわかる名前の駅で二人が下車し、一人乗車。駅舎は古いデザインだが新しい木造の建物で、 復元建築かもしれぬ。一本松駅では7、8人下車。
■平成筑豊鉄道という、昔の国鉄の路線だった第三セクター線との乗り換え駅である田川伊田駅のまわりはちょっとした町で、 大きなマンションも見える。数人が下車していった。田川後藤寺駅で数分の停車。停まっている時間を利用して、 作業員により車内吊り広告の付け替え作業が行われた。博多駅の商業施設の初売りの広告だった。池尻駅の線路わきの畑でおばちゃんが白菜を収穫してるのが見える。 添田駅の前には赤い字で「町制施行100周年」と書かれた幟が立っている。「歓遊舎ひこさん」という妙な名前の駅は、 すぐ前にある道の駅とつながってるようで、遊園地みたいなのも併設されてるのがみえた。駅のホームにあるJRの料金表が見えた。 小倉からここまで1080円だった。ここらあたりまでで乗客はずいぶん少なくなっていた。そういえば、 運転席の後ろに立ってずっと前方車窓見てるおっさんが一人いた。彦山駅は英彦山神宮を模した大きく立派な駅舎があるが、 無人駅のようだ。老人が一人下車。筑前岩屋駅では初老の夫婦が一組降りた。トンネルに挟まれた山あいの小さな集落がある。 標高が高いのか、雪が解けずに少し残ってる。宝珠山駅のホームには「九州で唯一!県境の上にホームが伸びる。県境の駅」と書いてある。 ホームの3分の1が大分県、残りが福岡県だそうだ。津田沼駅も習志野市と船橋市の境の上にあるが、県境というのはめずらしい。 大鶴駅前には製材所みたいな建物があり、列車のドアが開くとチェーンソウのような音が聞こえてくる。
■「まもなく夜明」という、夜に聞いたらへんな気持ちになりそうな車内の自動アナウンスがあり、カーブしながら久大本線との接続駅である夜明駅に到着し、下車。 少し古いデータだが、2006年のこの駅での一日の乗客数は66人となっている。川と山に挟まれた静かな集落で、 駅は道路から少し高くなった場所にある。以前訪れたときは古い木造の駅舎が建っていたが、いまは新しいきれいな駅舎に建て替えられている。 いい駅名だと思うが、周辺の夜明という集落の名前はどうやら「夜焼け」が由来のようで、焼畑が行われていた土地らしい。 駅前の道路は国道386号線で、交通量はけっこうある。郵便局員のバイクが駅前に停まっていた。配達員が駅のトイレを使っていたようだ。 駅のかたわらには「夜明の鐘」というのがあって、叩く木槌もいっしょに置いてあったので叩いてみたら、お寺の鐘みたいないい音がした。 列車の到着時刻が近づき、どこからか、線路の上を歩いて渡る母子がやってきてそのままホームへ上がった。 久留米方面からの黄色い列車が2両で入線。ここから久大本線に乗り換え。
■久大本線は福岡県の久留米から大分駅までを結んで九州を横断する141.5kmの路線で、沿線には有名温泉地の湯布院がある。 久留米〜夜明の区間は過去に既に乗車していたので、今回初めて乗車するのは夜明〜大分の区間。夜明を発って数分、 日田はひさびさに見る町らしい町で、乗降客も多い。豊後三芳駅の近くには「石州瓦販売施工」という看板を出した建物がある。 沿線には狭いところに細々と作った棚田が多く、ここで米を作って食って生きてやるという強い意志を感じる。 豊後中川の駅前には、高いビルではなく高い木々が茂っている。都市で暮らしてると忘れがちだが、日本中、 駅前であるということがアドバンテージにならない場所のほうが多い。天ヶ瀬駅で高校生くらいの者達が数人降りていった。 このあたりには温泉があるようで、川沿いには温泉宿が並ぶ。川を見下ろすと大きな岩がごろごろしている。 杉河内駅前には廃業したホテルが一軒見えるが、まだそれほど汚くなってないので、最近まで営業していたのかもしれぬ。 駅を過ぎてすぐ、二段になって流れ落ちる滝が見えた。
■北山田駅は三角屋根の黒い板壁の駅舎。豊後森駅で5分ほど停車。高校生達がここでほとんど降りたが、 ちがう高校生が数人乗ってきた。停車中に駅の様子を眺めると、古めかしい跨線橋の外壁になぜか大きな桃太郎の絵が描かれている。 大分方面からの赤い特急列車が入線してきて、すれ違う。留置線や引き込み線がたくさんある広い構内だ。 「童話の里」と書いてある看板も見える。ぼろぼろになった扇型車庫と転車台も保存されているようだ。 引治駅ではホームで運転手が高校生から切符を回収したり定期をチェックしたりしてる様子が見える。 豊後中村駅では若者たち降りていった。日本一の大吊り橋があるそうだが、駅から11kmと書いてある。 レンタカーもバスもないような場所だから、日本一、といわれても見に行けない。野矢駅は海抜543m。雪がわずかにある。 駅前に家が3、4軒。次の駅までの距離が長い。峠越えのようだ。列車は下り勾配を走り、徐々に建物が増えてきたなとぼんやり思っていて、 気づいたら由布院駅に到着。
■この駅ではどういうわけか40分くらいの長い停車時間をとるので外へ出てみることにした。
由布院と湯布院。
有名な人気温泉地だが、どうもこの「ゆふいん」という地名の表記がよくわからないことになっている。 町の名前は「湯布院町」で駅の名前は「由布院」で、高速道路のインターチェンジは「湯布院」、山の名前は「由布岳」になってる。 どっちでもええやないか、読み方も一緒やし、という思いもあるが、この際だからちょっと調べてみた。 「ゆふ」という地名自体ははるか古来から存在しているようで、そのあとまあいろいろあって、「湯平」と「由布院」が合併して「湯布院」になったり、 さらに湯布院町とあとなんか合併して由布市になったりもしてて余計混乱する。温泉地だから「湯」という字が入ってたほうがいいような気もするし、 由布という地名のほうが古いからこっちを大事にしたほうがいい気もする。 東京に「お茶の水」と「御茶ノ水」とか、「丸の内」と「丸ノ内」みたいなのもあるが、無理に統一する必要もないと思うからそのまんまにしておけばいい。
■それはそれとして、由布院駅前を少しだけぶらぶらしてみた感想としては、とにかくひたすら女に媚びたコンセプトの町づくりで、 温泉に興味がなければ男にはさほどおもしろい町ではないが、駅を出て真正面に由布岳が見えるのは見事だし美しい。 駅の中にギャラリーがあるが、それはべつにおもしろくない。でも駅のわきに立つ一本の大きな木は枝ぶりもよく、形がいい。 駅舎の設計は大分県出身の磯崎新だそうだ。あの人の設計にしては落ち着いてていいと思う。 列車に戻り、発車を待つ間外を見ていると、落ち着いた緑色の特急列車がやってきた。久大本線を西へ向かい久留米、 鳥栖を経由して博多まで行く「ゆふいんの森」という列車で、豪華で快適な内装が評判いいらしい。いずれ一度乗ってみようと思う。 この列車に乗る客が多く、行ってしまうと駅ががらんとした。こちらは普通列車でゆっくり東へ向けて出発。 南由布駅は南由布ふれあい館という施設が併設されていて新しい建物だ。湯平駅はJAゆふいんの事務所と併設になってる。 庄内駅で赤い由布院行き一両とすれ違った。下り勾配に入って快調に走る。 天神山駅から若者が二人乗車してきた。太陽が右後方に、山の切れ目に落ちていくように少しずつ沈んでいく。 小野屋駅からは3人、高校生くらいの者達が乗車。向之原駅には駅員がいた。豊後国分駅は、駅名のとおり今でもこのあたりが行政区界になっていて、 ここで由布市から大分市に入る。
■意外だったのは、案外たくさんの若者が鉄道を利用しているということで、このへんだと若者は車しか乗らないのかと思ってたらそうでもないみたいだ。 賀来駅あたりまで来ると徐々に大分市内らしくなり住宅も増えてくる。さすがにもう日は低いが、九州なので夕方5時でもまだ明るい。 向かいにCDウォークマンを使って音楽を聞いてる若者が座った。いまどきめずらしいなと思うが、CDのほうがMP3より音がいい。 たまにヘッドホンで聴くとびっくりするくらいちがう。耳も圧縮音源に慣れる。慣れというのはすごいなと思う。古国府駅の線路際に椿の花たくさん咲いている。 夜明駅から約3時間かかって大分駅に到着。これでこの日は日田彦山線、久大本線の二路線乗車完了できた。 再訪できた感慨にひたることもなく工事中の大分駅内を早足で歩き、素早く鳥天弁当を買って駅前の大友宗麟像を横目に見ながら地下道へ向かう。 大分駅あたりには二度ほど来たことがあったが、いつもすぐに立ち去ってしまう。大分駅前は都会だ。 トキハという大きな商業施設のとなりにある大分銀行赤レンガ館という建物を見てきた。1913年に建てられた国の登録有形文化財で、 設計は、東京駅の設計をした辰野金吾の事務所である。現在も現役の銀行として使われていてきれいな状態である。 規則的に並ぶ丸窓と玄関ホール上のドーム屋根が印象的だ。
■トキハの1階にあるバスカウンターで、あらかじめ予約しておいたバス券を購入。すぐに博多行きの高速バスに乗車。 1列+2列のゆったりした座席で、乗客もそれほど多くなく快適だ。車内で弁当を食べようと思ってたが、 どうもそういう雰囲気ではなかったのでやめておいた。市内をぬけて大分自動車道に入る。 有料道路は高い場所にあるので、遠くに別府湾と海沿いの町の夜景が見える。飛行機の離陸時のような景色で、 海に沿う町の形がつくる夜景がとてもきれいだった。夜6時でもまだ山の稜線がなんとか見える。見上げると細い三日月。交通量は少ない。 九州を東から西へ横断するように走り、鳥栖ジャンクションから九州自動車道へ入って北へ走って最初の基山パーキングエリアにバスが停まるので、そこで下車。 他に降りたのはサラリーマン風の男性一人。家族が迎えにきており、パーキングエリアの外にある駐車場から車で去っていった。 一般道に出て、国道3号線の筑紫野バイパスを南へ1km弱歩く。交通量が多く、道路沿いにはファミリーレストランや焼肉店、 怪しげなDVD試聴室などがあって、鹿児島本線のけやき台駅に到着。切符売り場の横に「サガン鳥栖J1昇格!」の旗が飾ってある。 新しい造成宅地に設けられた駅のようだ。快速列車は停まらないので各駅停車の鳥栖行きに乗車。ずいぶん空いている。 10分ほどで鳥栖駅に到着。夜でもホームのうどん屋は営業している。サガン鳥栖のホームスタジアムが見える。 鳥栖駅からすぐ近いところにあるホテルにチェックイン。今回初めて佐賀県内での宿泊となった。
No.1648 2011-12-24
茜浜からの景色
茜浜からの景色。

■自転車で茜浜。空気は澄んでいたが雲が出ていたので、富士山は裾のあたりが少し見えただけだった。 朝でまだ寒いからか、猫は一匹も見かけなかった。早い時間だったので人も少ない。連休の真ん中のおだやかな冬の日。自転車に乗るには気持ちのいい季節である。
■今年もいろいろあって、特に3月の震災、原発事故以降はいろんなことを考えた。幸運にも、いろんな場所に行くことができた。 来年は明るい一年になるといいなと思う。
■年末年始は函館の実家に帰省する予定である。このあいだ行ったばかりだから、なんだか変な感じだ。むこうは寒いんだろうな。 それはそれとして、今年も一年、ありがとうございました。またよろしくお願いします。みなさまよいお年を。
No.1647 2011-12-18
ガーラ湯沢駅
ガーラ湯沢駅。

越後湯沢駅
越後湯沢駅。

奥多摩駅
奥多摩駅。

■冬の18きっぷのシーズンに入っていた。ひさしぶりに、JR全線乗車に向けて、日帰り範囲内にある未乗路線を片付けるべく、 早起きして津田沼から快速に乗車。荒川のむこうから真っ赤な太陽が上ってきた。日曜日の早朝なので空いている。 東京駅からは上越新幹線。18きっぷ利用じゃないのかよ、と思うむきもあるかもしれないが、それはそれとして、 今回まず目指すのは、上越新幹線の途中、越後湯沢駅から分岐してスキー場のあるガーラ湯沢駅までほんの1.8kmほどの枝線区間である。 2階建て車両のMAXたにがわという新幹線には、ガーラ湯沢に向かうと思われる若者のグループがたくさんいた。 上野、大宮、高崎と過ぎると山越えの区間に入る。いくつかのトンネルを過ぎ、長いトンネルを抜けると突然の雪景色。 車内から歓声のような驚きのような、おおーという声があがるとまもなく越後湯沢駅に停車。 そして再び走り出したと思うとすぐに終点のガーラ湯沢駅に到着。この駅は冬季のみの営業である。
■ホームに降り立つと雪国の冷たい空気。近代的な駅のエスカレータを上がると改札があり、 そこに直結してリフト券受付やスキー・スノーボード道具のレンタルのカウンターみたいなのがあって、意外にも大勢の客が列を作っている。 近年はスキー場に若者があんまり行かなくて客が減ってるという話を聞いていたが、ぜんぜんそんなことはなかった。 みなほとんどがスノーボーダーのようだが。色とりどりのウェアを身に着けた者たちが右へ行ったり左へ行ったりしている。 土産物の店やレストランもあるし、温泉もあるようだ。越後湯沢からガーラ湯沢の区間は上越新幹線の一部という扱いになっていて、 この区間だけ乗車する場合は乗車券140円のほかに自由席特急券代が100円かかる。合計240円の切符を買って越後湯沢駅へ。
■上越線の在来線の列車に乗り換え。数えられるほどの乗客をのせた上り列車は雪深い山中を走る。 越後湯沢から水上のあいだには駅が5つしかないが、40分ほどかかる。途中にループ線が2箇所ある険しい地形をゆくためである。 新潟県の一番端にある土樽駅を過ぎると群馬県に入って最初の駅は土合駅で、上り線ホームは地上にあるが、 下り線のホームはトンネル内にあって、駅舎から10分ほど階段を下りないとたどり着かないという、なかなか大変な駅だ。 水上駅で乗り継ぎ。このあたりまで来るとようやく雪が晴れて、雲のすき間に少し青空が見えてきた。 後閑駅から乗客少々あり。沼田駅のあたりは大きな町のようで、客の乗り降りが多い。 津久田駅あたりまでくるとずいぶん山を下りてきたという感じで積雪はまったくなくなり、景色は冬枯れの野原になる。 敷島駅近辺からは巨大な鉄塔で送電線が山を横断している様子見える。渋川駅からも客が結構乗ってくる。 ホームを見るとミラーレス一眼のカメラを持った少年がいた。時代である。 新前橋駅で大勢下車していった。水上からちょうど一時間ほどで高崎に到着。
■乗換え時間があまりないので、せわしなく八高線ホームへ。駅のいちばん隅の目立たないところにある。 八高線には過去二度くらい乗ったことがあったが、混んでて景色も見えずただ下を向いてるしかなくて、 つまらない路線だという記憶だけだった。今回初めて八高線の上り列車に乗り、空いてたんで窓際の席に座れた。 改めて景色をみると、やはりそんなにおもしろくはなかった。のどかな北関東の田舎町の風景が続く。 群馬藤岡駅で数人下車したくらいで、あとはしばらく、それほど目立った乗降はなかった。日差しが強くて、12月とは思えないほどの暑さを感じた。 そしてこんなにいい陽気で、さっきまで雪山にいたのも信じられない。 寄居駅で数分、発車待ちの停車。乗降客がそこそこいた。ホームに古い木造の待合室があるのが見えた。 寄居を過ぎてすぐの川の景色は、ちょっとした渓谷のようできれいだった 。小川町駅は私鉄との乗り換え駅のようで、駅自体は大きいが、 周辺の町はあまり大きくないようで、若者数人の乗り降りがあったくらいだった。明覚という、ちょっと変わった名前の駅の駅舎は木造で、八角形だった。
■高麗川駅で八王子行きに乗り継ぎ。金子駅で数分のすれ違い待ち。徐々に乗客が増えてゆく。高麗川から約30分、拝島駅で下車。 初めて訪れる駅である。広い改札口があり、今風のきれいな駅で、行き交う人も多い。駅構内にあるそば屋で少し遅い昼食。 拝島から、今回初めて乗車する路線、青梅線の電車に乗り換え。車両の見た目は中央線あたりのものとほとんど変わらないが、 客がドア横のボタンを押して開閉するようになってる。このあたりは行政区分上では東京都の内側なんだけど、 車窓から見える景色は地方都市のようで、線路と建物の距離が少し空いてる。しかしさすがに乗客はそこそこ多い。 羽村、小作なんて田舎っぽい名前の駅でたくさん降りていった。河辺駅あたりでほとんど乗客がいなくなる。 この路線では、上下線とも、ほとんどの列車が途中駅である青梅で折り返し運転をしているようで、 ここで先へ行く電車に乗り継ぐ。青梅駅の発車メロディが「ひみつのあっこちゃん」の曲だった。
■青梅駅からひとつ目の宮ノ平駅のあたりまで来るといきなり玉石垣の集落みたいな景色が見え、 山梨とかそのあたりにありそうなのどかな風景だった。上り勾配やカーブを、車輪を軋ませながら走る。 山が間近に見え、なかなかいい景色だ。トンネルがけっこう多い。拝島から一時間弱で終点の奥多摩駅に到着。 線路の終端の先はセメント工場のようなのが建っている。あたりはぐるっと小高い山に囲まれていて、 静かな山間の町といった風情だ。改札を出て駅舎を外から見てみると山小屋風とでも言ったらいいのか、 観光地のお土産屋みたいな建物にも見える、駅としては独特な木造建築で、登山客がよく似合う感じがする。 駅の前には旧い型の丸い郵便ポストがたっている。この駅の標高は343mだそうだ。
■来たときと同じように青梅駅で乗り継いで拝島まで戻ってきた。さすがに東京都内なので、列車の本数が多い。 そして五日市線に乗り換え。この路線も今回初めて乗車する。 拝島駅と終点の武蔵五日市駅を含めて7駅、11.1kmの短い行き止まり線だ。開業は1925年というから、意外と古い。 一つ目の熊川駅は福生市にあって、福生というと大瀧詠一を思い出す。 景色は青梅線ほどのどかな感じではなく、町中を走る路線の景色が続く。 あきる野市内を走り、終点の武蔵五日市駅に到着。拝島からはわずか18分ほどだった。武蔵五日市駅は高架駅で、 ホームからは町の様子が見渡せる。駅の外に出てみるとバスロータリーが整備されていて、街路樹は電飾が取り付けられていた。 部活帰り風の高校生たちがホームではしゃいでいてにぎやかだ。武蔵五日市駅始発のホリデー快速という列車があり、拝島から立川を経由し、 中央線を経由して東京駅まで直通運転しているので、これを利用した。拝島から立川の間は青梅線に属しているので、 この区間も乗車してようやく青梅線は全線乗車完了。途中、新宿駅や四谷駅で停車したが、思ったほど乗客は混まないまま終点の東京駅まで。
■ふつうならここから総武線の快速で津田沼まで帰るところだが、もうひとつ、京葉線の東京〜新木場間が未乗のままだったので、 この際片付けてしまうことにしたんである。東京駅の京葉線ホームは遠くて、かなり歩く。途中、動く歩道もあるくらい長い。 ディズニーランド帰りの袋を持った者と多数すれちがう。後ろを歩いていた外人が「very cloudy」と言って驚いていた。 あと「ジャンプフェスタ」と書かれた黄色い袋を持った者も多い。ようやく京葉線ホームについて、乗車。 数分で新木場に停車。これでJR東日本エリアの路線は全線乗車完了。舞浜駅のホームは人がたくさんいて、 上り線ホームのほうが人が多いようだった。25分ほどで南船橋に到着。ここの駅にもディズニー帰りの者達が大勢いて、 千葉県内や埼玉方面へ帰宅するのだろう。武蔵野線に乗り換えて一駅、西船橋まで。かなり混雑していた。 西船橋から総武線の各駅停車で津田沼まで。
■これでJR北海道、JR東海、JR四国に続いてJR東日本管内も乗車率100%となった。 帰ってからバルセロナ対サントスの試合を見たが、いまひとつおもしろくなかった。 どれだけレベルが高くても、なんの思い入れもないクラブの試合はつまらないものである。 それはそれとして、今回は越後湯沢〜ガーラ湯沢の区間は別として、東京都内の路線の乗りつぶしだったが、 都市部での乗りつぶしがいまひとつおもしろくないのは景色がつまらないとかロングシート座席だから景色が見づらいとか、 そもそも混んでて景色どころじゃないというのもあるが、本数が多く接続が良すぎるダイヤで、 乗り継ぎがタイトになりがちというのもある。地方だと一時間待ちなんてざらにあるから、 逆にゆっくり駅を出てぷらぷらと川を見に行ったり町並みをみておいしそうな団子買ってみたりできる。 だったら車で旅行すればいいのではと思うむきもあるだろうが、それはまたちがう話である。
■今年の6月に東北新幹線の新規開業区間である新青森〜八戸間を新たに乗車して以来の乗車済距離更新である。 JR6社営業キロ合計19981.8kmのうち、乗車済距離は19440.7kmとなり、残り未乗路線は541.1km。 乗車済は97.292%となった。残りはすべて九州島内の路線である。
No.1646 2011-12-11
茜浜の猫
茜浜の猫。

■本当にひさしぶりに自転車で茜浜へ行ったのだった。
■ここのところ引越しやら腰痛やら急に函館とか、いろいろあって自転車に乗ってなかった。 汗をかかなくてすむから自転車にはいい季節である。午前中、そんなに早い時間ではなかったが、 晴れていたので富士山が見えないかなと期待していたがだめだった。3月の地震で崩れた河口の護岸工事は少しずつ進んでいる。 海はきらきらと光って、冷たい風が気持ちいい。ずいぶん長いことこの海辺にいる猫たちが三匹ほど姿を見せてくれて、 そのうちの二匹はおそるおそるこちらに近づいてきた。背中をなでてやると、最初はびくっとしていたが、 徐々に慣れたようでずっと私のまわりをぐるぐる回ってついてきた。
■午後からはラジオで山下達郎のサンデーソングブックを聞いていた。1992年に「サタデーソングブック」として始まった番組が日曜日に移動し、 この日の放送でついに、1000回目を迎えた。92年というと既に自分もラジオで音楽など聞いていた年齢だったが、 この番組を聞いていたという記憶はあまりない。「92年」と聞くとなんだかついこの間のような感じがするが、もう19年も前になるのだから驚く。
■子供のころから、ラジオは親の影響でよく聞いていた。とくにFM放送を好んで聞いていたが、92年頃まで、函館で聞けるFM局はNHK-FMと東京FM系列のFM北海道だけだった。 いまFM北海道は「AIR-G」という、なんだかよくわからない放送局名になっている。92年の冬には日本で初めてのコミュニティFM局である「FMいるか」が開局し、 93年にJFL系の「FMノースウェーブ」が開局した。FMいるかは函館山の麓に放送局があって、当初はまだ出力が小さかったせいか、 函館のはずれのほうにある実家では受信状況はちょっと悪かった。この放送局では、私が通っていた高校の教師が番組を持っていたり、 地元企業のコマーシャルばかり流れたり、とても身近な感じがする放送だった。ノースウェーブは、開局にむけてテレビコマーシャルも打ったりして、 相当力が入っていた。正式な開局は夏だったが、その前から試験放送としてずっと音楽を流していた。その選曲がとても自分の好みで、 このFM局は期待できるな、と思っていた。本放送が始まってみると、やはり東京FM系列とは少しちがう、洋楽が多くて商業色がそれほど濃くない内容が多かった記憶がある。
■話がかなり逸れたが、私がサンデーソングブックを認識したのはたしか、午前11時からの「ハート・オブ・サンデー」を聞いて、 午後から1時の槙原のりゆき、2時山下達郎、3時からドリカム、4時福山まさはる、5時ユーミン、という並びで一日中FM北海道の番組を聞いていた時代で、 そのときは、2時台だけ古くさい曲がかかるな、という認識しかなかった。ユーミンの番組はいまも、1時に移動してはいるが、続いている。
時代はずっと後になって、4年くらい前だったか、長野の奈良井という宿場町を訪れたとき、雪が降るなかで入った一軒の、 囲炉裏がある古い家屋を利用した飲食店のラジオでおいしい雑炊を食べながらサンデーソングブックを聞いたことをなぜか印象深く覚えている。
そして今年の3月20日、震災後初めての放送で「鎮魂プログラム」と銘打って放送された回は、山下達郎氏のことばといい、選曲といい、 一生忘れ得ぬ内容となった。これだけ長く続く番組というのは、この先もそうはないだろう。 ほぼ毎回録音しているが、録った放送は老後の楽しみといったら大げさだが、この先、年をとってからまたゆっくり聞きたいと思う。
No.1645 2011-12-10
月食

月食
月食。

■皆既月食が観測される日だというので、調べてみたら21時半くらいから欠けはじめて、23時過ぎにピーク、 みたいな記事を見たんで、カメラを持って外に出てみたら寒い。月が空のかなり高いところにあるので、 三脚も使わずに手持ちで撮ったらこのざまである。ぼやっとした月しか撮れない。 薄い雲がときどき出るくらいで概ね晴れていたので、肉眼では欠けていく様子がよくわかり、不思議な現象をしばし見上げていた。 月を影が半分くらい覆うと、途中から赤っぽくなっていった。星もたくさん見えた。
■月食が損してるなと思うのは、月はふつうのときでも時々欠けてるのでインパクトが弱いということで、 太陽が欠けるのと比べると、どうにも地味な印象はぬぐえないのだった。
No.1644 2011-12-02
北斗星の食堂車
食堂車。

上野駅にて
上野駅に到着した北斗星。

■函館を定刻通りに発った北斗星は青函トンネルをくぐって本州へ渡り、元の東北本線、現在は第三セクターの「青い森鉄道」となっている路線を南へ。 この頃にはもう既に眠っていた。仙台駅停車時に目が覚め、外を見るとまだ真っ暗。駅には人影もなく静まり返っている。 再び寝たが、福島駅停車時にうまく目が覚めた。いま、福島の町はどうなっているのかどうしても見ておきたかったんである。 まだ夜明け前、ちょうど午前6時頃、福島駅のホームには通勤と思われるサラリーマン風の男性4、5人ほどが列車の到着を待っていた。
■その後、郡山、宇都宮、大宮と、大きな町だけで停車し、快調に走る。この列車には、日本でいまでは数えるほどしか存在していない食堂車が連結されている。 一度でいいから利用してみたいとかねてから思っていたので、コーヒーを一杯頼んでみた。他のテーブルでは、中高年の夫婦やグループが、 ホテルみたいな朝ごはんを食べていて、思いのほか利用者がいる。北関東の、それほどおもしろくはない景色が流れていくなかで、 ちゃんとした椅子とテーブルでコーヒーを飲むのもなかなかいいものだ。下り列車ならちょうど、函館本線の大沼や駒ケ岳、 あるいは噴火湾沿いの美しい景色を見ながら朝食がとれるのだろう。自分にとってはこれがおそらく最初で最後の食堂車利用だろうと思ってコーヒーを飲み干した。
■札幌からだと16時間半、函館からはちょうど12時間かかって終着の上野駅に到着。明るい場所で見る北斗星は、さすがに車両の古さが目立ってきていて、 次々と夜行列車が姿を消す昨今、いつまで存続できるのだろうか。北海道まで新幹線が伸びたときには廃止だろうという予測はいろいろな場所でされているが、 案外それよりも廃止は早いかもしれぬ。もう時代に合わないのだろう。残念である。特急列車発着ホームから京浜東北線と山手線のホームへ。 平日の東京のあわただしい風景で、急に現実に引き戻されたような感覚になる。東京駅から快速で津田沼まで。 千葉もなかなか寒い。午後から職場へ。
No.1643 2011-12-01
peacepiece
peacepiece。

八幡坂と函館湾
八幡坂と函館湾。

クリスマスツリー
クリスマスツリー。

ライトアップ
ライトアップ。

北斗星
北斗星。

■昼間、父の病室へ。前日あたりからずいぶん状態がよくなったようで、医師の話からも、 まだまだ安心できないし何があるかわからないが、とりあえずどうにか一山越えたといった状況のようだ。 医療の技術はすごいしありがたいと思うが、長生きがいいことなのかというと、一概にそうとは言えないと思う。
■昼には数年ぶりにラッキーピエロでハンバーガーを食べた。でかくてうまい。市電で八幡坂のpeacepieceへコーヒーを飲みに行った。 盆と正月はちゃんと休む店なのでなかなか営業してるときに行けない。古い銀行の建物の一部をカフェとして使っていたのだけど、 ひさびさに行ったらその建物がすっかりなくなってて、peacepieceの部分だけが残っていた。いい建物だったのにもったいない。 店の人に聞いたら、今年の9月に取り壊されてしまったということだった。壊した跡にはきれいな今風の新建材を使った普通の真新しい住宅が建っていた。
■函館西高校の生徒達や弥生小学校あたりの子供達が下校していく。盆正月以外のときに来る機会がないので、 そういう風景が新鮮だった。夕方、子供達は山の坂を下って帰ってゆき、カラスは山に帰ってきた。 バスで実家まで戻る。
■そろそろ千葉に戻らなければいけない。せっかくの機会なので寝台列車の「北斗星」で帰ることにした。平日の上り列車なので案外楽に個室が取れた。 札幌を17時12分に発ち、函館駅には21時41分、翌朝9時38分に上野に着く。残り少なくなった夜行列車のひとつである。 それほど遠くない将来、この列車も廃止されるのだろう。この機会を逃したらもう乗れなくなってしまうかもしれないので、 乗ることにした。正規の航空運賃よりは安いが、割引運賃よりは高い。
■少し早めに函館駅についたので、歩いて、海辺の大きなクリスマスツリーを見にいった。 ちょうどこの日、12月1日から「はこだてクリスマスファンタジー」の期間に入り、ツリーのライトアップが始まるので、 一度見てみようと思ったんである。夜の海風はつめたく、駅のまわりの人通りも少ないが、金森倉庫群のほうまで行くといくらか人が歩いていた。 辺りはきれいにライトアップされていた。冬の夜の海辺は寒かった。
■駅に戻り、改札内に入ってホームへ。いちばん端にある8番ホームには北斗星が既に入線していて、発車を待っていた。やはりそれほど客は多くないが、 中高年の者達がわりと乗っていて、食堂車やラウンジでゆっくりくつろいでいる姿が見受けられた。利用した個室には薄型テレビがついてて、 映画が放映されていた。A寝台なので天井が高く、広さはないが窮屈な感じはしない。この列車にはシャワー室もついているが、 家で風呂を済ませてきていたので利用しなかった。ベッドに横になり、揺られているうちに眠った。函館を発つと、翌朝の仙台まで停車せず、闇夜を走り続ける。
このページのトップへ

「津田沼ノート」は武田がやっています。

TsudanumaNote

津田沼ノート

BACKNUMBER

2002 ////////////

2003 ////////////

2004 ////////////

2005 ////////////

2006 ////////////

2007 ////////////

2008 ////////////

2009 ////////////

2010 ////////////

2011 ///////////

"■"RINGS

PAPERS

ここではありません

多聞日記

Barricade

下北沢スタジアム

Matatabi Online

ここであいましょう

あわわアワー

ボクデス on the WEB

web-conte.com

LINKS

dotsメモ

津田沼カメラ

inserted by FC2 system