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No.1602 2011-05-29
■5月最後の日曜日。例年よりずいぶん早く梅雨入りし、台風も近づいているらしい。土曜日、日曜日は雨が降り続いていたのでほぼずっと家にいた。 午後は東京FMで山下達郎のサンデーソングブックを聞いていた。番組のなかで「この業界で何十年過ごしてきたが、反原発に対する恫喝というのを何度も目にしてきた」 といった発言をしていた。これはいろいろな意味でなかなか重い一言だったように思う。やっぱりそうなんだ、という思いしかない。 夜はニュースで水戸市長選挙の投票率が30何パーセントと言っていた。なかなかに低い数字ではないかと思う。 原発利権うま過ぎてやめらんねー。日本人の命?日本の経済?そんなもん知ったことか。 これが東電や原発利権に群がる連中の本音なのだろう。そういう企業体制や体質を容認する仕組みや制度を作ってきたのが、 我々が選んできた政治家達だ。若い世代の政治アレルギーはそろそろ卒業しなければいけない。
No.1603 2011-05-21
茜浜
茜浜。

■自転車で茜浜まで。梅雨になるまでにあと何度自転車で来ることができるか。先週に続いて、防波堤沿いの工事が行われていた。 噴き出した砂は、段差ができたところを埋めるために使っているようだった。工事の車両が数台入ってきていて、バリケードも置かれていた。 猫達は一匹も姿を現さなかった。
■話は唐突に変わるが、こういった記述を見つけた。
『サルでも分かる政府、マスコミ、御用学者の情報操作の経過』
「2重3重4重5重の安全策があるから日本の原発は大丈夫。安全ですよ!」
→「もう停止してるから心配なし。安全ですよ!」
→「爆発したけど放射能漏れの危険はありません、安全ですよ」
→「放射性物質漏れたけど、水や食物の汚染はないので安全ですよ」
→「水や食物から放射能検出されましたが、ただちに影響ないので安全ですよ」
→「基準値が元々厳しすぎたから引き上げました。よって今は基準値内だから安全ですよ」
→「ヨウ素は半減期短いから安全ですよ。プルトニウムは重いから原発周辺に留まるから安全ですよ」
→「発癌や白血病が発症確率の上昇は数%しかないから大体安全ですよ」
→「実はチェルノブイリも健康被害は科学的に証明されていないから安全ですよ」←イマココ
→「因果関係は証明できません。原発から漏えいした放射能はあなたの癌とは無関係なので賠償しません。
 さようなら」
■今後、日本人の平均寿命が一気に下がるのだろう。小さな子供達やこれから生まれてくる子供達が本当に不憫でならない。
No.1601 2011-05-14
茜浜
茜浜。

清掃工場の裏の猫
清掃工場の裏の猫。

■例によって茜浜。そして豊砂。茜浜では、地震から2ヶ月経ち、ようやく補修工事が一部始まったようで、雨水の枡のコンクリート打ち直しや蓋の付け替えが行われていた。 それでもまだアスファルト舗装は波打ち、U字溝は路面から飛び出たまま、砂もごっそりたまっている。トランペットの練習をしている者がいた。 ここでは禁止されているゴルフ練習をしている初老の男もいた。川の反対側へ。めずらしく、清掃工場の裏で猫を見た。豊砂の突堤のそばの波打ち際では、 カラスが砂浜をくちばしで突っついていた。このあたりでよく見かける猫たちは見かけなかった。帰りはひさしぶりに、なんとかバンブーとかいう名前のパン屋へ。 いくつか買って帰って食べたら相変わらずおいしかった。
■町は平和で、のんびりしていた。200km先で放射性物質ががんがん出まくっているとは思えないようなのどかで平和な風景である。
No.1600 2011-05-08
茜浜
茜浜。砂がたまっている。

豊砂の猫
豊砂の猫。

■曜日の並びの関係で、今年は長い連休がとれた者も結構いたのではないか。そんな連休も終わる。 朝からよく晴れたので自転車でまた茜浜へ。ふと気づいたのだが、町をゆく人達を見ていると、あんなにたくさんいたマスク着用者がほとんどいなくなった。 原子力発電所の状況はまったく何も状況が改善していないのに、というか、むしろ悪化しているのに、みんなもうあんまり気にしていないのかもしれぬ。 茜浜の猫たちはこの日も姿を見せず、一匹だけ、消波ブロックの上を歩いていた。みなどこへ行ったのだろうか。 そういえば、きれいに割れている消波ブロックを見つけた。地震のときに割れたのだろうか。改めて揺れの強さを感じさせられた。
■川を渡って豊砂の突堤方面。またあの猫達がいた。日差しを避けるために、釣り人が停めて置いてる原付の下でねそべっていた。 海を覗いてみると案外水は透き通っていて、小さな魚が泳いでいるのが見えた。鳥の群れが東京湾の上を飛んでいた。
No.1599 2011-05-04
豊砂の猫

豊砂の猫
豊砂の猫。

■連休。自転車で茜浜。秋津公園のあたりでめくれ上がってた歩道の石畳は撤去されてアスファルトで舗装されていた。 地震のときの液状化現象で吹きあがったと見られる砂は、茜浜の堤防の下にあいかわらずそのままたまっている。 いつもの猫たちの姿はなかった。菊田川の反対側へ。海浜霊園の裏、芝園の津田沼浄化センターの裏を通って豊砂の突堤のあたりまで行くと、 以前からずっといる猫が三匹。その中で色の薄い猫が一匹、カメラを向けるとこちらへ歩いて寄ってきて、きりっとした顔でポーズをとってくれた。 連休が終わればもう夏が来る。汗をかくいやな季節の到来である。
No.1598 2011-05-01
松山城からの景色
松山城からの景色。

■朝起きてからまたリフトに乗りに行った。前日より雲が厚いような気がするが、空気は澄んでいて遠くまで見える。リフト脇には鯉のぼり。 城の前では、はいからさんみたいな格好をした者が観光客の記念撮影に応じていた。せっかく城まで来たので、前日見なかった城の裏手のほうにまわってぶらぶらしてきた。 立派な櫓がそびえている。山頂からは瀬戸内海まで見える。藤棚にはきれいな紫の藤が咲いていて見頃である。 山を降りる途中にある東雲神社に立ち寄ってみた。立派な神社である。神明造の社殿を持つ神社で、拝殿からもそれが見える。 伊勢神宮等で見られる、古いタイプの様式である。伊勢神宮とも関係があるらしい。完成は案外新しくて1971年だそうだ。空襲で焼け、 それから建ったものということである。長い石段を下る。落ち葉を掃除している人がいたが、石段全部掃除するのは大変そうだ。 下りきるとロープウェイ乗り場の近くに出る。

湯築城跡
湯築城跡。

■路面電車で道後方面へ。道後温泉駅の一駅手前にある道後公園で下車。目の前にあるのが道後公園で、公園内には湯築城跡がある。 「ようおいでたなもし」という、なにか呪文のような言葉が書かれた看板がある。たぶん、地元の歓迎の言葉なのだと思う。 湯築城14世紀前半に築かれたというから、後醍醐天皇とか足利尊氏の時代である。 城といっても、近くの松山城なんかと比べるとずいぶん原始的というか、まだまだ発展途上にあった時代の城という印象を受けた。 今では堀と土塁が残っているだけだが、発掘により、門や土塀の遺構が出てきたらしい。公園内には復元された小さな武家屋敷もあるし、 小さいながら資料館もある。堀の水面には蓮の葉がたくさん見える。公園中央には小高い山があり、一番上まで登るとちょっとした展望台になっていて、 松山城も見える。路面電車や温泉街も見える。公園では湯築市というのをやってて、いろんな出店や音楽の演奏なども行われていた。日本100名城。

石手寺
四国八十八箇所霊場第51番札所 石手寺。

■道後公園のすぐ脇には正岡子規記念博物館というのがあった。それほど人はいない様子で、駐車場にとまってる車もまばらだった。壁面には、 正岡子規の巨大な肖像写真。歩いてすぐ道後温泉駅があり、駅前からバスに乗って数分のところにある石手寺へ。 四国八十八箇所霊場の第51番札所である。松山市内にあり、道後温泉からも近いからか、参拝に来ている人がけっこういる。 交通量の多い道に面しているので静かな感じではないが、黒ずんでいて堂々とした立派な門がある。国宝の山門で、鎌倉時代に建てられたらしい。 手水舎のひしゃくで少し離れたところにある地蔵さまに派手に水をかけるおばちゃんがいた。三重塔の濡縁みたいなところに、 四国八十八箇所霊場すべての寺院から採取してきた土が入った小袋が並べて置いてあって、それに触れることでご利益があるような気がしたので全部さわって回った。 「お砂踏み」というのだそうだ。境内には線香の煙がたちこめている。多くのお遍路さんが来ていた。白装束の本格的な格好の者もいるし、 普段着の者もいる。ベンチに腰掛けて本堂のスケッチをしている高齢のお遍路さんがいた。年末に購入した八十八箇所巡礼用の納経帳(朱印帳)を持ってきたので、朱印をいただく。 「石手名物やきもち」という暖簾をつけた売店があったのでのぞいてみたのだが、10個入りでしか売ってなかったので、おいしそうだったが買わなかった。 猫が一匹歩いてたのでついていってみたら、消火用のバケツの水を飲んでいた。帰り、国道に出て寺の方向を見ると、背後の小高い山の上に巨大な弘法大師の像が立っているのに気づいた。 寺のあちこちに遊び心というかユーモアを感じるというか、あやしげな寺であった。

伊佐爾波神社
伊佐爾波神社。

■バスで道後温泉駅へ戻る。温泉宿などが並ぶ道を少し行くと、鳥居の向こうに長い石段が正面に見える。伊佐爾波(いさにわ)神社である。 さっそく石段を登った。数えたら135段あった。なかなかしんどい。でも去年の年末に香川の金毘羅山に行ったときは685段登ってるからそれに比べたら楽である。 登り切って振り返るとけっこう高い。遠くに道後温泉駅が見えている。石段を登って正面に見えるのが大きな楼門で、その左右から奥に向かってぐるりと廻廊がある。 2000年に塗り直し等の補修工事が行われたらしく、まぶしいほどの朱色だ。中央には八幡造の本殿。現存する八幡造は三つしかない。 他の二つは大分の宇佐神宮と石清水八幡宮。宇佐神宮では本殿を見ることができなかったので、今回初めて八幡造の本物を見ることができた。 流造の発展型で、前殿と後殿の軒が接するという特殊な造りで、どうしてこういう形になったのかいまいちわからない。じっくり見てきた。 1667年、石清水八幡宮を模して造ったということだが、拝殿は春日大社の中門に似てる。 祭神は譽田別尊(応神天皇)、足仲彦尊(仲哀天皇)、氣長足姫尊(神功皇后)で、本殿が国の重要文化財。 長い石段があるせいか、それほど人も多くなく、落ち着いた雰囲気だった。石段を一番下まで下りてきたら、猫が一匹いたので近くへそっと行ったら、 足元にやってきた。人に慣れているようで、頭や体をすりすりとこすりつけてくる。しばらく撫でてやったら喉をごろごろと鳴らしていた。

浄土寺
四国八十八箇所霊場第49番札所 浄土寺。

日尾八幡神社
日尾八幡神社。

■路面電車で松山市駅まで行き、伊予鉄道の郊外電車のひとつである横河原線に乗車。松山市駅から南東へ伸びる13kmほどの路線で、 単線だが、列車すれ違いできる駅が多いので、15分に1本くらいの本数で走っている。途中石手川を渡り、松山市駅から約10分で久米駅に到着し、下車。 小さな三角屋根の駅で、駅員がいる。駅の出口は北側にあり、駅前にはブックオフがあった。小松街道という大きな通りを東へ少し歩くと五叉路があり、 交わる道のうちいちばん細い道を行くと、四国八十八箇所霊場の第49番札所である浄土寺がある。古くからの住宅街の中にあり、 高い木に囲まれていないので開放的で明るい境内である。門を入って石段を上がる。中央にあるのが1482年に建立された寄棟造の大屋根を持つ本堂。 中には行基が彫ったという木造の空也上人立像があるとのことで、本堂とあわせて国の重要文化財に指定されている。 ここの本堂は質素で力強い印象。向かって右に大師堂。浄土寺は、先ほど行った石手寺とはずいぶんちがう真面目な雰囲気だ。 石手寺がふざけているというわけではないが、こちらは実直な感じがする。いくつかのお遍路さんのグループが来ており、 本堂や大師堂の前で熱心に般若心経をあげていた。朱印をいただきに納経所へ行くと、先に来てた人が掛け軸に朱印をしてもらっていた。 納経帳にもらうだけでなく、掛け軸にもらうのももわりとポピュラーみたいで、他の札所でも見たことがある。駅に戻る途中、 五叉路の交差点に面した場所に日尾八幡神社があったので立ち寄ってみた。伊佐爾波神社ほどではないが、長い石段があり、両側には石灯篭が並ぶ。 その手前には、広島の宮島の厳島神社にあるような、支え足のついた鳥居があった。要するに六点で支える構造のもので、こういう形のを「両部鳥居」と呼ぶのだそうだ。 鳥居の前にはなぜか洋風なデザインの細いアーチがあった。ここは752年に宇佐八幡から勧請した神社だというからかなりの歴史を持っている。 やはり愛媛は海を挟んで九州大分が近いから、いろいろな面で九州の文化の影響があったのだろう。大きな門をくぐり石段を上りきると拝殿がすぐにあり、大きな注連縄と日の丸が目に入る。 その奥に本殿があり、反りのある大きな青銅色の屋根が見える。屋根上の千木や鰹木も大きく立派だ。 ユーモラスで明るい表情の古い狛犬が並んで置いてあって、なにかひそひそ話をしているように見えた。

伊予和気駅
伊予和気駅。

■久米駅から電車で松山市駅まで戻り、市内電車でJR松山駅へ。この駅に入るのは4年ぶり。ちょうど、岡山行きの特急しおかぜが入線していた。 一人の若者が駅員に、鯛めしのおいしいお店を尋ねていた。その駅員が、他の駅員数人に店情報を聞いてあそこがいいんじゃないか、とか相談していた。 予讃線で二つとなりの伊予和気まで。予讃線の普通列車は本数がかなり少なく、特急列車のほうが多いように感じる。 10分弱で伊予和気駅に到着。無人駅なので、車掌が切符を回収。伊予鉄道は梅津寺駅にしろ久米駅にしろ、小さい駅でも駅員がいたが、 JRは全国的に、とくに地方の路線は、無人駅のほうが多いのではないかと思う。経費削減のためとはいえ、さびしい話である。 伊予和気駅はちょっと変わった駅で、やたらと凝った洋風建築の駅舎である。コの字形の建物で、正面から見るとほぼ左右対称になってる。 曲線を取り入れたアール・ヌーヴォ調のファサードで、壁は下見板張り。駅の開業が1927年と古いので、その時代の建物なのかなと思ったが、 どうやら駅舎自体は平成に入ってからのものらしい。わざわざこんな意匠にしたのはどういう理由なのだろうか。個人的には悪くないと思うが。 窓や開口部周辺、天井、照明などもずいぶん手の込んだデザインになっていて、力が入っている。 駅のホームはやや狭いと感じたが、側線もあり、構内はそれなりに広い。周囲はのどかな住宅地で、高校生が何人かここで下車した。 駅の中には切符の自動販売機がある。以前は駅舎内で喫茶店が営業していたらしいが、いまは店のあったところが閉鎖されていて、 ガラス越しに中を見るとテーブルの上に椅子が乗せられていた。

圓明寺
四国八十八箇所霊場第53番札所 圓明寺。

■駅から数分北に歩いたところにあるのが、四国八十八箇所霊場の第53番札所である圓明寺。古い歴史のある寺だが、 兵火などによる焼失が数度あり、今の伽藍が整備されたのは江戸時代に入ってからのようだ。住宅街の中にあるやや小ぶりな境内で、 楼門、本堂、観音堂、大師堂、鐘楼などがぎゅっと狭い中に集まって建っている。 夕方になっていたが、数人のお遍路さんが参拝に来ていて、そのなかには先に訪れた浄土寺で見かけたグループもいた。 大きなバックパックを置いて休んでいる者もいた。歩き遍路をしているようで、とてもうらやましく思える。時間をかけて歩いて回れるなんて贅沢だ。 彼らはまだ40代くらいに見えたが、やはりお遍路をしているのは高齢者が多い。今の年寄りなら結構元気だし、手厚い年金もあって暇もあるだろう。 自分達が60代になるころには、そういう優雅な老後は存在しないし、それ以前に多くの日本人が癌でばたばた死んでいることだろう。 今の高齢者が日本をずたずたにして、そのままあの世に逃げ切りそうでやりきれない気持ちになる。それはそれとして、 境内の一角に、マリア観音像が彫られている小さな「キリシタン灯篭」というのが目立たない場所にひっそりとある。 あと、お遍路さんが納経の際に納める「納め札」という、自身の名前などを記した紙製の札があるが、この寺からは日本最古、 1650年の銅製の納め札が発見されているそうだ。朱印をいただいて駅に戻る。
■松山駅まで戻る列車の中で、ロングシートに座った中学生か高校生くらいの男が、棚の上の荷物を座席に座ったままとろうとして、 なぜかよくわからないが、思いっきり頭を後ろの窓にぶつけてて、すごい音がした。かなり痛そうだったが、そのまま友人達と下りていった。 松山駅から路面電車で大街道まで行き、松山空港行きのバスに乗車。リムジンバスではなく、普通の路線バスだった。 乗客は少なく、時折乗ってくる者と途中で降りていく者がいた。日が傾いてきて、車内はのんびりした雰囲気。 20分か25分くらいかかって、終点の松山空港に到着。松山発着の便は、新千歳、羽田、中部国際、伊丹、福岡、鹿児島があるようだ。 国際線の定期便は上海とソウル便がある。伊丹行きは使用機の変更があって、座席が足りないため全員が乗れないというアナウンスをしていた。 連休最終日の夕刻なので混雑しているかと思ったが、そうでもなかった。羽田行きはほぼ定刻通りの離陸。一時間と少しで羽田に到着。 上空から見る東京は、ビルの上の航空障害灯の赤い光があちこちでたくさん点滅しているのがやけに目立っていた。いままであまり気になったことはなかったが、 やけにそればかり見えたのは、町自体が以前より暗くなってたからかもしれぬ。羽田からリムジンバスで津田沼へ。首都高速の湾岸線は空いていて、 いつもより少し早く帰れた。湾岸線沿いの観覧車も灯りが消えていた。看板なども消灯していて、海側は特に暗かった。
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