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No.1568 2011-01-23
豊砂の海辺
豊砂の海辺。

豊砂の海辺の猫
豊砂の海辺の猫。

■自転車で茜浜。最近ここが「茜浜ノート」みたいになってる。天気はいいが富士山は見えず。猫も一匹いたのみ。 それほど寒くないので、家族連れなどが来てぶらぶらしたり凧をあげたりしていた。 菊田川の反対側にある霊園裏の公園を経由して芝園清掃工場、津田沼浄化センターの裏を通って豊砂の海辺へ。 釣り人数人と猫が四匹か五匹ほどいた。ずっと前に見た猫もまだ健在だった。
■ツイッターで宮沢章夫さんとその周辺の方達が、1995年についていろいろ考察や当時の記憶を書いてた。 95年、高校生だった自分は、教室のテレビでクラスの者達と震災関連のニュースをじっと見ていたことを思い出す。 そして、ただ単に小太りだという理由だけで「尊師」というあだ名がつけられたやつがいたことを思い出した。 それはそれとして、確かにあの年を境にいろいろな変化があったように感じる。そして昨年、2010年も一つの節目というか、 転換となる出来事があったように思う。それは既存メディアがインターネットに敗北した象徴的な出来事があった年として後々まで記憶されるのではないか。
■尖閣諸島付近での中国船による領海侵犯と狼藉・愚挙・暴挙を撮影した映像が、テレビではなく、Youtubeから世界に発信されたこと。
このことの意義はとてつもなく大きい。
■ついでだが、Youtubeが無くなるととても困るが、ツイッターが無くなってもべつになんにも困らないな、とも思った。
No.1567 2011-01-16
茜浜から幕張方面を望む
茜浜から幕張方面を望む。

■午前自転車で茜浜。冬の千葉は晴れの日が多い。富士山がうっすらと見えた。日は出ていたが風が冷たい。 人も少ないが猫達の姿も少ない。数匹いたが、近づいたらみんな逃げていった。茜浜の帰り道、新習志野に新しくできたケーズデンキの前をよく通るが、 開店時間を過ぎても駐車場に停まってる車はまばらで、いつも客が入ってないように見える。
No.1566 2011-01-09
茜浜の猫
茜浜の猫。

■今年最初の茜浜。晴天で富士山も見える。日が出てたので猫達もいた。どこかの飼い犬も元気に走ってて、なぜかこちらに向けて突進してきた。 まだ幼い二匹の猫がじゃれて取っ組み合いをしていた。帰りは自宅近くにある丹生神社に寄って、少し遅い初詣。新年早々体調をわるくしたので、 なんとか一年無事に過ごせるように祈願してきた。
■午後からは山下達郎のラジオ。今週も大瀧詠一氏との新春放談。興味深い話をたくさんしていた。
No.1565 2011-01-03
■高熱でダウン。10年に一度くらい、39度越えをやってる気がする。次に高熱が出るのは40代か。薬のんでじっとしとけば熱も下がるだろと思って家で寝てたが全く下がらず、 こりゃだめだと判断して、タクシーで夜間もやってる医療機関へ。普段利用しないから知らなかったが、家から案外近かった。小さな子供も来てた。 熱が出るとしんどい。新年早々ついてない。インフルエンザではなさそうだという診断。薬を処方してもらい帰宅。
■四国旅行と実家への帰省で疲れてたのかもしれぬ。無理がきかない年齢になってきたということかもしれぬ。
No.1564 2011-01-02
■話題に出すのも気分がわるいのは箱根駅伝のことです。
なんなんだあれは。
関東の私立大学の学生が走ってるのを見てなにがおもしろいんだ。関東の人間が見るのはまだ少しはわかる。北海道の人間にとって縁もゆかりもない、 プロの興業でもないあんなのを見てどうするのかという疑問が子供の頃からずっとあったわけです。
いまもそう思っている。
しかもクロンボ出てきて白けるし。黒いのに白けるとは。感動もくそもあるか。晴れた芦ノ湖と富士山はきれいだった。
■そんなわけで、朝から寺の坊主が来てお経を上げていったり、市内に住む親類が挨拶に来たり、あといろいろなんだかんだで外へ行けなかった。 午後の山下達郎のラジオでは、大瀧詠一氏を迎えて、毎年恒例の新春放談。ちょうど叔父叔母が来てたのでほとんど聞けず。 そんなこんなで夕方になり、実家を後にして五稜郭駅から一駅乗って函館駅。バスに乗り継いで空港。夜の便で羽田。 空席有りのまま離陸。東京の空から見る夜景はいつ見てもすごい。ほぼ定刻で到着。リムジンバス津田沼行き。千葉はあたたかい。
No.1563 2011-01-01
■新しい年が明けた。寒い。雑煮。JRと路面電車を乗り継いで函館山方面。 終点の函館どっく前で降りて入舟漁港から散策。そこそこ晴れてたので、日が出てると積もった雪や路面の氷がまぶしい。 イカ釣り等の漁船がたくさん停泊していた。さすがに元日は漁も休みなのだろう。町も静かで、人通りや車は少ない。 そして寒いのに猫がいる。氷の道の上をぺたぺた歩いててたくましい。冬の毛がもこもこしている。駆け寄ってくる猫もいた。 晴れてたので、日に当たってる猫がけっこういた。

ティーショップ夕日
ティーショップ夕日。

■入舟町の狭い路地から坂を上がって船見町。函館山の西斜面、海が見える場所に「ティーショップ夕日」という喫茶店がある。 元日なので休みだった。1885年(明治18年)に建った函館検疫所台町措置場の建物を改修工事して使っている。 検疫所ってなんぞ、と思う向きもあるかと思うが、要するに輸出入品の消毒をするところだ。コレラが流行したりしてた時代である。 古くから開かれていた港を持つ函館ならではの施設といえるだろう。ピンク色に塗られていてけっこう目立つが、 函館ではピンクの建物はそれほどめずらしくない。とても丁寧に手入れされていることが外から見てもわかる。 西に向いているので、店の名前のとおり、夕日がとてもきれいに見えるのだそうだ。いずれ夕方に来て、中に入ってみようと思う。 すぐ前の道には、凍結路面に撒く砂で路面に凍った路面に「スベル」と書いてあった。

外国人墓地
外国人墓地。

旧ロシア領事館
旧ロシア領事館。

■すぐ近くにはロシア人や中国人などの外国人墓地もある。高龍寺の通りから弥生小学校(旧西小学校)、西中学校の裏の道を通って幸坂を登る。 坂のいちばん上には山上大神宮があり、初詣の客がそれなりに来てるみたいだった。坂の途中にある旧ロシア領事館を見てきた。 1906年(明治39年)に竣工したが、翌年の大火で焼け、1908年に再建されたのが現在残っている建物である。 赤レンガと白い漆喰の組み合わせが美しい建物だが、ちょっとへんてこなところがあって、 まず、ロシア領事館なのにドイツ風の外観をしている。全体を見るといわゆるユーゲント・シュティールの流れを汲んだデザインになっている。 ドイツ人のリヒャルト・ゼールとG・デ・ラランデという人物が設計をしたようだ。そして、なぜか玄関の出入口上に唐破風みたいな和風の庇がついている。 それが意外と、そんなに違和感がないのだ。レンガ造の煙突が何本か立っている。かつては「道南青年の家」という施設として、 学生等の合宿所のように使われていた時期もあったが、いまは空家になっている。使われていないせいか、建物にちょっと傷みが見える。 現在、再生活用を検討している人達がいるようだ。建物は使われないと朽ちるのが早くなってしまうから、なんとか有効に使って、残していってもらえればと思う。

大正湯
大正湯。

■坂を下り、二本ほど通りを西へいったところにある交差点の一角に、1914年(大正3年)に開業した大正湯という銭湯がある。 映画のロケ地としても使われたという1928年(昭和3年)に建てられたこの建物は、いまだ現役の銭湯として使われている。 下見板張、正面に縦長の窓がついたいかにも函館らしい洋風建築で、淡いピンクの外壁にグリーンの板葺き屋根がとてもきれいだ。 前の道路にある黄色い消火栓もいい具合に合っている。戸の向こうに見えるエントランスのタイルによる装飾もとてもいい感じだ。 函館には実家があるからなかなか銭湯に行く機会というのがないが、一度くらいは行ってみたいものである。いつまでも銭湯として残ってほしいものだ。 そして、向いにある蕎麦屋がおいしいらしい。

大黒湯
大黒湯。

コーヒーハウスJOE
コーヒーハウスJOE。

■坂を下りきって電車通りまで出てから少しだけ東にあるいて姿見坂の上りはじめのあたりにある弁天町会館の向いにあるのが、これまた銭湯だった大黒湯である。 「だった」というのは、残念ながら去年の6月に廃業してしまったからである。1907年(明治40年)に宝来町で開業し、 現在の建物は1923年(大正12年)に建てられたもの。「閉店のごあいさつ」という貼り紙があった。店主高齢のため、という理由が書かれていた。 開業して103年。一度も利用したことはなかったが、お疲れさまでしたと言いたい。大きな切妻屋根の、一見銭湯かなにかわからない立派な和風建築だが、 通りから奥まった場所にある高い煙突が、ここが銭湯であったことを物語っている。電車通りを渡って海側へ。 夏に冷たいものを飲んだ太刀川家住宅・店舗(現在、タチカワカフェ)の前を通り、函館港が見える通りを末広町方向へ少し歩くと東坂の海側の基点の交差点に出る。 そこの角にあるのが旧遠藤吉平商店で、元々は海産商の事務所だった。いまはコーヒーハウスJOEという店になっている。 石造に見えるが、レンガ造に漆喰を上塗りして目地切りをしている。1885年(明治18年)の建物だが、こぢんまりとした2階建てで瓦葺きの方形屋根に三連アーチのファサードなど、 今見るとかわいらしく感じるが、当時としては斬新なものだっただろう。三連アーチということでいうと、電車通り沿いにある旧金森洋物店によく似ている。 映画「つむじ風食堂の夜」で、つむじ風食堂の外観として使われていた建物でもある。店内は別の店で撮影されていたが(ちなみに別の店というのは、 二十間坂の近く、コープさっぽろの向いにあるラーメン屋の来々軒である)。店名の「JOE」というのは、ここのすぐそばにある「新島襄海外渡航記念碑」の新島襄からきてるらしい。

大手町ハウス
大手町ハウス。

■再度電車通りを渡って基坂を上がり、元町公園の中を通って久しぶりに茶房菊泉へ行き、甘いものとお茶で休憩。教会群や八幡坂あたりのいちばんメインの観光エリアを通り、 カールレイモン旧宅や旧渡辺家住宅等の古い建物を見ながら大三坂を下った。そういえば旧渡辺家住宅も外壁は濃いピンク色だ。 ピンク色の建物をよく目にする日だ。他にもこのあたりでは遺愛幼稚園とか港ヶ丘教会、北斗ビルなんかも、濃い淡いの違いはあるが、ピンク色をしている。 古い建物の再生活用のはしりとなった大きなレンガ造の明治館の前を通り、国際ホテル、ニチロビルの並びの通りから曲がって海側に少し入ったところにあるのが二階建ての旧浅野セメント函館営業所だ。 大学の卒論で、函館の町を題材にしたのだけど、そのとき、このあたりも歩いて町並みや建物などの写真を撮ったが、その中にこの建物も含まれていた。 興味をひきつけるなにかがあったのだろう。これはただものではない建物だな、と思ったのではないか。 この建物は、村木甚三郎、村木喜三郎親子による施工で、1920年(大正9年)に完成。村木甚三郎は、元町の旧函館区公会堂や旧小林写真館等、 以前ここで紹介したものを含む函館のいくつもの建築物を施工した名大工、名棟梁だ。
■で、自分が学生時代にここに来たとき、この建物は、空家になってから長い時間が経ってたようで、 煤けて汚らしく、雑草が伸び、開口部には板が打ち付けられていた。取り壊すのを待つだけ、といった様子だったのをよく覚えている。 それがいまから数年前、当時の写真を元に復元する工事が行われたようで、10年ぶりくらいに訪れたら、見事に美しい建物に生まれ変わっていた。 とても驚いた。いまは「函館大手町ハウス」という名前になっているようで、現在、国の登録有形文化財になっている。 左右対称で、エントランス上部にバルコニーを設けた典型的なコロニアルスタイルといっていいのではないかと思う。 一階は「テュ・プランド・デュ・テ」という、客に覚えてもらう気ないだろうというような名前のカフェになっていた。 この店の人は、電話をとるときなんて言って出てたのだろう。「はい、テュ・プランド・デュ・テです」とちゃんと言ってたのだろうか。 確かめるために電話してみたい気もするが、現在は休業中とのこと。
■それにしても、重厚感のある美しい建物で、元町あたりにでもあれば見にくる人もたくさんいるだろうと思わせる。やはり、ハリボテではなくしっかり歴史を持った建物はちがうなと思った。 ちょっと地味な目立たない場所だが、函館駅からは歩いても行けるので、観光で函館に行って、もし時間に余裕があるようなら見に行くといいのではないか。 市ではなく、民間によって古い建物をここまで見事に復元できた例というのは、それほどないのではないかと思う。むしろ、市は古いものを壊すほうに力を入れているというなんとも情けない状況なので、 なおさら頼もしい話だ。朝市のあたりを歩いて函館駅。一駅乗って実家まで。今回は、いままでここであまり紹介してない、どちらかというと函館の中でも若干地味なスポットをめぐってみた。
■夜、チェーン系の店で地元の友人らと会って飲み食い。血糖値がどうのこうのと言い出すやつが現れて、あーあ年とったなとおもった。
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