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No.1440 2009-9-27
谷津せんべいの店
谷津せんべいの店。

■「津田沼ノート」なので、たまには津田沼界隈の話を。なんだよサッカーの話とかロックフェスとか長野とか、 ぜんぜん津田沼の情報がないじゃねえか、と思うむきもひょっとしたらあるかもしれないが、 津田沼「を」書いてるわけではなくて、津田沼「で」書いてるので津田沼ノートということにしているので、 そこはひとつお願いします。
■いきなり話がそれた。自転車で、京成線の津田沼から見て一つ上野側の駅である谷津駅のあたりまで行ってみた。 国道14号線側の、マンションや大きな病院のあるほうの駅前は、ららぽーとやビビッドスクエアにある自転車屋まで行くときに通るし、 きれいに整備された駅前の商店街には以前行ったことがあった。今回はその海側ではなくて、反対の山側の駅前を見に行ってみたわけである。 山側といっても山があるわけではなくて、そもそも下総の地域には山らしい山はない。千葉は昔、下総と上総と安房の三つに分かれてて、 房総半島の南のほう、上総と安房には200〜400メートルくらいの山がいくつかある。「安房」っていうのは、一説によると、 四国の徳島の人が黒潮に乗って船で移り住んできたから「阿波」の音とおんなじ「安房」の国という名前にした、という話があるらしくて、 確かに太平洋岸の海はそういう潮の流れがあるから、まんざら嘘でもなさそうな気もする。 実際、遠い昔に和歌山から移り住んできた人たちが住んでる一角が津田沼の京成線沿いにある。
■また話がそれたが、谷津の駅前は、上の写真のような昔ながらのせんべい屋や小さな本屋、中華料理店などがぽつぽつとあって、 いかにも小さな私鉄の駅前といった風情だった。せんべい屋の奥ではおやじがせんべいを焼いていた。ちょっと買ってみようかなと思ったが、 値段見たらけっこうしたのでやめた。どんづまりみたいな場所に駅の建物があって、道がせまくて、 ちょっと行っただけでがらりと町の雰囲気が変わるものだなあと思った。家からものすごく近いのに、となりの駅のあたりのことは案外知らないものである。
■山側から海側に出る道はかなりの急な坂道で、下ったところに踏み切りがあって、渡ると国道14号線に出る。国道14号線から先はかつて海だった。 だから「谷津」という地名は、谷のような急坂に面した海、という意味からきているのかなとか考えた。14号に出たので、アンポンタンにパン買いに行って、それから帰った。
No.1439 2009-9-22
仁王像の足
仁王門にある仁王像の足。

善光寺山門
善光寺山門。

善光寺と煙を浴びる人たち
善光寺と煙を浴びる人たち。

善光寺の仲見世通り
善光寺の仲見世通り。

上田城東虎口櫓門
上田城東虎口櫓門。

■朝、豊科駅前からタクシーで田沢駅まで。このあたりは大糸線と篠ノ井線が平行に南北に走っていて、豊科から長野方面へ行こうとすると、 いったん松本まで下って、そこから篠ノ井線でもういっかい北に向かう、Vの字みたいなルートで行くことになってわずらわしいし時間ももったいない。 豊科からまっすぐ東へ3.5kmほどいけば田沢に着く。この方法は、前の晩に、店をやってる友人に聞いた。たしか1300円くらい。一人だと割高かもしれないが、 二人以上ならそうでもない。
■電車で長野駅まで。ちょうど一時間くらいで到着。途中、ひさしぶりに姨捨を通って、いい景色だった。畑から野焼きの煙がいくつももくもくと上がっていた。 田はちょうど、収穫直前の黄金色をしていて美しい。 長野駅は過去数度来たことがあったが、乗り換えしたくらいで、駅を出て歩くのは初めて。バスで善光寺へ。100円だった。安い。観光客がたくさん乗ってた。 市街を北へ向かうバスの車内から町並みを見ると、なかなか都会的だ。10分くらい乗車。終点の、寺の門が見えるバス停で降りると、古い建物が道路に沿って建ち並んでいる。 門に向かって右手にある藤屋旅館という、石造りの洋風の建物がいい感じだった。旅館というよりホテルだと思う。この日は結婚式で貸切だったみたいである。
そして善光寺である。さすがに有名な寺なので人が多くてにぎわってる。 でも浅草とかあのあたりの、人波がなかなか前に進まなくていらいらする感じではなくて、自分のペースで歩いたり立ち止まったりできるくらいなので、 それがよかった。バス停から仲見世通りを歩き、仁王門、山門をくぐる。いずれも黒ずんだ大きな門だ。そしてシャープなデザインの屋根を持つ本堂へ。 なにかご利益があるらしい煙を浴びようとする中高年の者達がいた。六地蔵もある。本堂の中には金色の立体的な来迎図や閻魔様や菩薩像があり、 昔の人の考えるあの世の様子がこんな感じだったのではないか。「びんずる尊者」もいた。それはなんなのかというと 「病人が自らの患部と同じところを触れることでその神通力にあやかり治していただくという信仰があります」ということになってるらしく、 みな、像をぺたぺたさわっていた。
■寺の横や裏へ行くと人もまばらで、気持ちよく散策できる。絵馬がたくさんかけられてたので見てみると、次のようなことが書かれている一枚があったので、 書かれてたままの文をここに書き写してみる。
「一、今年の六月中にケータイがほしい。です
 二、私のクラスのいじめ(けんか)がなくなるといいです
 三、父が来年までにしゃっ金をなくして広い家に住みたい」
また、つたない字で書かれた次のようなものもあった。
「お金とたべものがいっぱいできますように」
■それはそれとして、善光寺は、とにかくスケールの大きな寺で、長い信仰の歴史が強く感じられるので、日本人なら一度は行ったほうがいいのではないか。 バスで長野駅まで戻り、篠ノ井線としなの鉄道を乗り継いで上田へ。しなの鉄道はかつてJRの信越本線の一部だった第三セクター線である。 そんなに儲かる路線ではないと思うのだけど、列車内のドアの上のところにテレビモニターがついてて、広告映像を流していた。山手線みたいな感じ。 長野から上田までは、途中篠ノ井からしなの鉄道線に入っておよそ40分。特筆すべき景色はそれほどないが、小高い山あいの中をのんびりと走る。 上田駅は新幹線も停まる大きな駅で、駅前は広々と整備されていて、ホテルやビルやヨーカドーが見える。 線路沿いの道から上田高校の前の坂道を上がってしばらく行くと上田城址。駅からだいたい800mくらい。 武田氏の武将真田昌幸が築城したらしい。真田十勇士とかそういうのが関係あるのだと思うが、よく知らない。 少しでもちゃんと知ってればもっといろいろ興味をもててよかったかもしれぬ。十勇士のメンバーの猿飛佐助、霧隠才蔵とかの絵柄が入った幟が城内にたくさん立ってた。 櫓や門が一部復元されている。石垣は当時のものがそのまま残っていて、人の背丈ほどもあるばかでかい石が入ってておどろいた。 桜の木が多く植えられてたので、春にはきっと美しいのだろう。櫓の中には入れるようになっていて、城に関する資料が展示されている。 平地に築かれた平城だからか、造りがゆったりしているように感じた。城内の一角には真田神社というのもあった。 真田氏の家紋である六文銭がいろんなところに描かれていた。こぢんまりとした落ち着いた神社である。
■城址から上田市役所の前の通りを歩き、中央二丁目の交差点から駅前の商店街を歩いて駅まで戻った。 坂道に沿って店が並んでいて、活気があるというほどではないが、どの店もちゃんと営業していて、小ぎれいでちゃんと機能している印象のある商店街である。 途中にあった上田第二中学校やキリスト教新参町教会、みすず飴本舗という店など、歴史ありそうな雰囲気のいい建物がいくつかあった。 上田はまたいずれもう少しゆっくり歩いてみたいと思った。上田駅からまたしなの鉄道に乗り、篠ノ井駅で下車。 特急しなので松本へ。自由席はいっぱいだったのでずっと立ってた。40分くらい。松本からは新宿行きのあずさに乗車。指定席も混んでた。 前の席にはフランス人ぽいグループがいてしばらくうるさかった。鉄道はだいたい時間通りに走るからいいなと思った。総武線で津田沼へ。けっこう空いてた。
No.1438 2009-9-21
宮島耳鼻咽喉科医院
宮島耳鼻咽喉科医院。

テアトル銀映
テアトル銀映。

旧開智学校
旧開智学校。

友人の店
豊科の友人の店。

■五連休の真ん中の日だった。さすがに一日目、二日目よりは道路空いてんだろうとか思って高速バスに乗ったらえらい目にあった。 新宿〜松本間のバスである。渋滞のメッカというイメージのある中央道は、まったくイメージ通りのものだった。 ふつうなら三時間で行けるのに、六時間かかった。この日は夜に安曇野の豊科に着いてればいいというアバウトなスケジュールだったので、 べつにあせったりしないで済んだが、乗り合わせた者らは、各方面になにかキャンセルの電話や、すごく遅れるといったような連絡をしてた。 あんなにはげしい渋滞というのを私は体験したことがなかったので、貴重な経験だった。で、そういうことがあって逆に、 鉄道などの専用軌道を持つ交通機関の優秀さというか、大切さを強く感じた。いますっかすかになってるローカル線のダイヤを逆に物流に利用できないものかとか考えていた。
■途中、談合坂のサービスエリアで休憩。たいへんな盛況だった。浮かれて食べ物いろいろ買ってしまった。
■すっかり午後になって、松本駅前に到着。パルコに立ち寄った後、松本の町中をぶらぶら。城と縄手通りは以前見たので、 中町通りから城の東側、国道147号線と市役所の間の通りを北へ歩いた。 中町通りは、昔ながらの蔵みたいな建物が建ち並ぶ町並みなのだけど、ちょっときれいすぎる気がする。 松本は空襲を受けなかったのか、おそらく明治、大正期、昭和初期頃のものと思われる古い石造の洋風建築が多く残っているので、見て歩くと楽しい。 上土通りには下町会館や松本ホテル花月、白鳥写真館など、いい建物がたくさんある。 明治大正のものではないが「テアトル銀映」という味のある映画館が建っていた。もう営業してないみたいだった。 Nikon New FM2で撮ったらなぜか昔の写真みたいになった。 さらに北へ歩いていくと、堀が見えてくる。このあたりで特徴的なのは、宮島耳鼻科医院や青木医院、上條医院など、 町の医者の建物がとてもモダンなデザインの古い建物で、それを今も現役で使っていることである。 古い建物を大事に使っている感じが外観から察せられて、それがいい。
■安原町の交差点から東へ行くと「常法寺小路」という狭くて短い通りがあって、江戸時代から残ってるような古い建物が小路の両側に建ち並んでいる。 中町通りの建物と比べるとずいぶん年季が入っているように見えた。ナナカマドの赤い実が生っていた。 西へ向かい、「首貸せ地蔵尊」という物騒な名前の地蔵を見たりしながらしばらく歩くと、旧開智学校の北側に出た。松本城の真北にある。 和洋中折衷みたいな独特な外観と屋根の真ん中の塔が特徴的。昭和36年に重要文化財に指定されたそうだ。 近くの松本神社に立ち寄ってみた。向拝のないのっぺりとしたファサードの社殿である。境内から門と大木越しに見る夕日がまぶしくてきれいだった。 その後、夕暮れの松本城へ。観光というと真昼間になりがちだが、夕方もいいものだ。 遠くの山並みのと城のシルエットが美しかった。犬の散歩の者が多い。
■松本駅から大糸線に乗って20分ほどで豊科駅到着。駅の近くのホテルにチェックイン。フロントのところになぜか血を流してるおやじがいて、ホテルの人が対応してた。 歩いて友人の店へ。一年ちょっとぶり。お客さんの数はほどほど。どれもこれもおいしい。おいしい料理を撮影させてもらおうと思ってたのに、出されるとおいしいからすぐに食べてしまって、撮るのを忘れた。 函館とその近郊から取り寄せてる食材ばかり出してくれる。めずらしく焼酎をたくさん飲んだ。 おいしい魚によく合う。お店の一周年を記念して作ったTシャツをもらった。三時間くらい食べて飲んでホテルに戻った。
No.1437 2009-9-13
幕張海浜公園
幕張海浜公園。

■免許の更新のため、朝から幕張の免許センターに行ってた。自転車で行った。ようやく涼しくなってきて、自転車で走ってもそんなに顔が赤くならない。 朝8時半からやってるということなので、それに間に合うように行った。早く行けば早く終わるだろう、と思ったんである。 そしたらみんなおんなじこと考えてた。ものすごい人数が長蛇の列。ゴールド免許だから講習は30分だったけど、結局全部終わったのが10時半だった。 その時間には、もうあんまり人が並んでなかった。今度行くときは朝一番ねらいじゃなくて、もっとゆっくり行ったほうがいい。
■それから海浜幕張駅前を経由してベイタウンのヴィレッジヴァンガードに立ち寄った。ひさしぶりに行ったら、店内のレイアウトがずいぶん変わってた。 CDや雑貨類に目を引くものが少しあったが、購入までには至らず。海浜大通り経由でひさびさの茜浜。猫達は元気そうだった。 海がきらきらしていた。秋津公園を通ったらサッカー場でユースの試合。高円宮杯の試合だろうか。流通経済大柏高とどこかの試合がちょうど行われていた。 まろにえ通り経由で帰宅。ひさびさの自転車だったが、やっぱり自転車で走るのは気持ちがいい。
No.1436 2009-9-12
■家で千葉対新潟の試合を見た。こりゃだめだ。今年こそ落ちる。
■そしてこの日、Jリーグが死んだ。
■いや、もうとっくに死んでいた。それは昨年9月の柏対鹿島の試合の旗竿事件である。 あの鹿島側の客の行為は、鹿島の勝ち点を剥奪しなければならないほどの悪質なものだった。客が試合を直接妨害するなど、絶対にあってはならない。 埼玉で浦和とガンバの客どうしが騒いだのなんて比較にならないほどの重大な事件だった。最低でも、鹿島のホームゲームは数試合、 無観客試合にしなければならなかった。それほどのものだったと思っている。 そして実際に下された制裁措置は「制裁金100万円」。そういえあの試合も主審は岡田だった。
■そして今回の鹿島対川崎の、後半途中での「ピッチコンディション不良の為」の中断、そしてノーゲーム。なるほどそういうことですか。 15日の理事会で再試合をどうするかといった協議がなされるそうだ。その結果がどういったものになるにしても、 今回、あの状況で試合を止めたという事実は消えない。あの状況でノーゲームにして得をするのは誰か。
■それにしても川崎はなにかと気の毒なことの多いクラブだ。嫌いだけど。 我那覇選手のドーピング問題のときも、ベストメンバー規定問題のときも、何かと理不尽な目にあっていてつらいだろう。 「我々を勝たせてくれないなにか」っていうやつである。結局は政治力でなにもかも決まるみたいである。
■Jリーグ、いままでありがとう。そしてさようなら。
No.1435 2009-9-09
■先日こんなニュースを読んだ。
四日午前五時二十分ごろ、埼玉県熊谷市村岡の男性会社員(46)方の浴室で、中学一年の長男(13)が倒れているのを男性が見つけた。 助けようと近づいた男性も倒れ、妻(38)が 一一九番したが、男性と長男は死亡した。
浴室脇の脱衣所の戸に「硫化水素発生中」と書かれた紙が張られていたことなどから、熊谷署は長男が自殺を図ったとみて詳しい死因などを調べる。
同署によると、脱衣所に長男が書いたとみられる自殺をほのめかすメモがあったが、いじめなどについての記述はなかったという。 男性方は四人暮らしで、妻と高校一年の長女にけがはなかった。
東京新聞(2009年9月4日 夕刊)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009090402000233.html

■いやな気持ちになる。今は、中学生くらいにもなると、将来、自分がどのくらいの生活ができるのか、 なんとなく分かってしまうのだと思う。とても苦しい。公務員と天下りだけが人間で、あとは奴隷かと思ってしまう。将来の楽しいことが想像しにくいというか、思い描くことが困難な世の中になってしまった。 だから、彼の気持ちがわからなくもない。死ぬ一歩手前でなんとか生きてる人が多いのではないかと思う。 どうだろうか。 そして、自分の命も省みずに息子を助けに行こうとした父親は死んでしまって、暑い夏に自分の子供を車に放置したままパチンコして子供を死なすようなゴミが生きてるんだから、 ひどい話だとも思う。
■日本では毎年、3万人以上が自ら命を絶つそうだ。統計の取り方次第ではその数は10万以上にもなる、という話も聞いたことがある。 本来自殺にカウントされるべき案件が、解剖などが追いつかず、不審死や事故死として処理されているという。 それはそれとして、一年に3万人以上ということは、一日あたり80人だ。
日本ではこの日、この中学生以外に80人以上が自殺しました。
今日も、80人以上が自殺します。
明日も、80人以上が自殺します。
明後日も、80人以上が自殺します。
そう考えると、ちょっとショックではないか。
■若者がこうやってどんどん自殺していく一方で、老人はたくましく生きている。 大きな駅などへ行くと、くたびれたサラリーマンが死んだようなうつろな顔で歩くかたわらで、 なにかのツアーなのか、楽しそうにはしゃぐ老人の集団をよく見かける。なにかが間違っている気がする。
■最近、何かの曲をYoutubeで探してたら、いつの間にか昔のテレビコマーシャルの映像をいくつもぼんやり見ていた。 おそらく1980年代のものだったと思う。コカコーラやカップヌードル、資生堂などのコマーシャルが優れていると感じた。 昔の映像を見ていたら、未来は明るいと、無条件に信じることができた時代があったことをうっすらと思い出して、 なんだかいろんな意味で涙が出そうになった。どうして日本はあの時代を捨ててしまったのか。 それとも、自分がただなにも知らなかっただけなのだろうか。
No.1434 2009-9-08
■今年のライジングサン・ロックフェスティバル・イン・エゾ(以下RSR)については、8月分にたくさん書いたが、 ちょっと時間が経って、いろいろ考えたりしたことなどをもう少し書きたい。
■今年、集客が減るのではないかと懸念してた理由は、出演者の顔ぶれとかそういうことではなくて、 チケットのことである。少し値上げしたということもあるが、一日券をやめて通し券のみにしたことに対して、 いろんなところで批判が多かった。一日だけでも行きたい金のない学生もいるのに、とか、仕事あって金曜日休めないよ、とか、 そんな意見がネット上の掲示板等でさかんに言われていた。 主催者側からは、ゆっくりじっくり二日間会場で過ごしてほしいという意図で一日券をなくした、といったような説明があったが、 おそらくこれは建前だろう。一日券で二日目も居座る客の排除という目的と、もうひとつは「人を減らす」という目的があったのではないかと推測する。 集客して利益を上げるという命題を真っ向から否定するような、そんな目的があるものか、と思うむきもあるだろうが、 その反面、ホスピタリティの問題とダフ屋問題が一気に解決した。このあたりのことを指して、RSRの公式BBSのあるスレッドでは「ポジティブな規模縮小」という言葉で表現してる人がいた。 トイレの不足が深刻になった2007年、人が多すぎてあらゆる不満が噴出した2008年のことを思い出すと、 いくら広いとはいえ、会場に適したキャパシティというのはあるわけで、そこらへんを解決するために思い切ったことをやったのだと考える。 さらに今年は、会場を広げてより多くのテントサイトを確保した。毎年、テントサイトのチケットがヤフーオークションであほみたいな値段に釣り上がったりしてたので、 どうにかならんのかな、と思っていたんである。
■RSRでもなんでもそうだと思うのだが、たいてい、公式サイトのBBSの内容は総じてレベルが低いというか、かなりだめな感じである。 「ホームセンターってなんですか?」とか「何行きの飛行機に乗ればいいの?」といったありさまで、読んでみるとびっくりする。 ただそんななか、建設的な意見がいくつか出ている、読むに値するスレッドがひとつあったので、その内容を抜粋してみる。

3:実際、各フェスがこの10年規模拡大一辺倒でやってきて飽和状態なのにブレーキが効かない状況になってる。 ミッシェルやブランキーに引っ張られた10年前のムーブメントも少し落ち着いてきてるし
いまこのご時勢「少し規模を考え直そうか」という勇気あるフェスが出てもいいかなとは思う。 RSRはそういう、次の時代のフェスの在り方を提案するのには一番いいポジションにあるフェスだと思うし、リード役を担って欲しい。 ポジティブな規模縮小ってやり方もあると思いますよ
進化の方向をちょっと変えるというか。
参加する方も、これもあれもと要望するんでなくて「これは自分達でやれるから」「ここには金掛けなくていいから」という提案も大事かなと。
元々、客と主催者とが手探りで成功させたフェスだったんだから、またそこから始めたっていいじゃない、っていう

4:今回は人員的には丁度良かったと思います。
ただWESSさん(引用者注:RSRの主催者)これで経営は大丈夫なんでしょうか? それが心配です。 大丈夫ならこの路線で行ってほしいです。
超メジャーを召集し大量の観客を呼び込むのは本州のイベントに任せ、北海道らしいジャパニーズロックの祭典であってほしい。 そして絶対に何十年も継続してほしい。

5:そうそうそうそう。 前向きな縮小への挑戦を、私は高く評価してる。
当日行くまで、人数が、テント数が、と心配してたけど、金曜夕方にあたり一面に広がるテントの数を見て、一安心した。 全体で一割程度の空きがあり、昨年より空きの数は多かったんだけど、このくらいで構わないと思う。 来場して踊って食って楽しみ、快適さを求め続ける人が増えることは、 券代の高騰とモラルの低下を招き、フェスの衰退を意味すると思う。 参加者ひとりひとりにできることが、もっとあると気付いてほしい。

7:極端な話いっそ2年に一度とか3年に一度開催でもいいんですよ
国内ナンバーワンとか三大フェスとかの称号を求めるんじゃなく、逆にそこに背を向けて己の道を突き進むのもアリ
大規模フェスの経験たっぷりの地方のいちイベンターっていうほとんど国内唯一と言っていいポジションを持つ WESSだからこそできる小回りってあるはずだから

9:運営スタッフが頭悩ませてルールを作って、スタッフや警備員がそれに従って案内してても無視する奴が多数出れば秩序が無くなる。 結果としてぐちゃぐちゃになる。これが全体で行われれば去年のようになる。って感じするけどね。 金払ってるからって調子に乗りすぎなヤツが多すぎるだけだよ。

10:全てを客側だけのモラルに任せるには無理があるのでは? 確かにマナーを守らず順番を守れない人たちが悪いのは確実なんだけど、 それを守らせるだけのオペレーションを昨年は用意してなかったように思う。(今年はある程度改善されたと思うけど。)
仕事でも何でも問題が発生した際に「個人の頑張り」だけで解決しようとすると無理があるよね。
写真撮影やタバコにしてもフリーな空間を楽しみにしているのにあまりガチガチに規制すると興ざめするけど、 主催者側の義務として最低限呼びかけ看板くらいは必要じゃないかなぁ。
自由と放任は似て非なので。
ともあれ、主催者側の努力と客のモラルの両方とも必要ですよね。

13:こういうBBSが用意されてるんだから、来年はたとえば我々客の側から自主ルールを構築して広げるとかマナーを浸透させるとかいうポジティブな動きはあってもいい。 カネ払ってんだ、客なんだと何でもWESS任せにするんじゃなくてね。
主催者の負担が軽くなれば必ず客にもメリットが生まれてくるだろうし。
文化度が低い集団には規制が多く、民度が高い集団にはタブーが少ないものだ。
単に主催者側で縛るとまた別の問題が起こるんだよ。長い目でフェスを育てようと思えば、 時間がかかっても少しずつ双方の意識を向上させるように努めるしかないんだよ。


■会場で毎年「YOMIURI RISING EXPRESS」という新聞みたいなのが二日目の午前中くらいに配られる。 一日目の写真や客達のスナップ写真、アーティストのインタビュー、タイムテーブル、エリアマップなどなどが掲載されている。 読売新聞のプロモーションみたいな感じ。そのなかにちょとしたコラムがあった。Yuya Hironakaという人がwrittenしたと記してある。 無料の配布物なので、転載しても大丈夫だと勝手に判断して、以下に書き起こす。

新しい一歩の結果を
 「継続は力なり」という言葉がある。一般的には「どんなことでもコツコツ続けていれば、いつかは力がつくんだよ」といった文脈で使われることが多い。 しかし、よくこの言葉について考えてみると、もう一つの意味が含まれているのではないかと気づく。それは「継続するということは、すごく大変で、力がいる」 ということ。昨年、10周年という大きな節目を迎えたRSR。最終日には(恐らく数年ぶりの)美しい朝日が昇り、 会場にいた誰もが集大成と呼ぶに相応しいフィナーレに心を打たれた。
 そして、今年1月、ホームページで11回目となる今回の開催が発表された。RSRを継続するという意思の表明だ。 言うまでもなく、何かを継続するには今までよりも一歩前に踏み出さなければならない。だが、この一歩が非常に大変で、 力がいる。まして、日本有数の巨大フェスとなったRSRだ。踏み出さなければ、さぞ楽だったろうと、つい想像してしまう。
 でもRSRは一歩を踏み出した。そして、20回、30回と継続することを目指すという。
 北の大地を切りひらいた開拓使のように、新たな領域に足を踏み入れたRSR。その一歩の結果をこの会場で見届けたいと思う。

No.1433 2009-9-05
TRAIN CAFEの店内
TRAIN CAFEの店内。

TRAIN CAFEの外観
TRAIN CAFEの外観。

菊田神社の狛犬
菊田神社の狛犬。

■自転車で行こうと思ってたのだけど思いのほか暑かったのでやめて電車で行くことにした。 京成津田沼駅から各駅停車で13分。勝田台駅で下車。北口から歩いて500mくらい、 住所でいうと八千代市村上にある「TRAIN CAFE」というお店に行ってきた。 古い都電の車両を使ってカフェをやっている。とても雰囲気のいいお店で、店のまわりの木々の緑もきれいだった。 コーヒーもおいしい。八千代という場所を考えても、値段は正直いってそんなに安くはないが、 それを差し引いてもいい店だと思う。某テレビ番組の収録のためにちょっとだけ撮影の人たちが来てた。俳優も来た。
■電車というやつは、人がたくさん乗ってるとせまいが、よく見たらけっこう広い。十分住めると思った。 鉄道会社は、古くなった車両を解体するんだったら、一般に売ればいいのに。
■道の向かいには黒沢池市民の森という公園があった。森だった。黒くて大きな、きれいな蝶が飛んでた。 勝田台の駅までの道の途中に貝殻亭というフレンチのレストランがあって、結婚式のため貸切と書いてある。 どこかの別荘のようなしゃれた建物だった。京成の電車で津田沼へ。高校生がたくさん乗ってた。 京成津田沼の駅からちょっと歩いて、ひさしぶりに菊田神社へ。池のほとりの木陰が涼しい。 まだ蝉が鳴いていた。
No.1432 2009-9-02
■寒くて布団から出たくないくらいの気温。そこそこ早起きして食事。庭に来るスズメのために、残ったごはんを台に置いたらすぐ食べにきた。 片づけ、戸締りなどしてから病院へ。 兄の奥さんと市内に住む叔母も来た。ベットに横になったまま母が運ばれていった。スムーズにいけば、昼の2時には部屋に戻れるでしょう、 と医師からの説明があったが、1時半には戻ってきた。ナースステーションに近い部屋に移った。 医師の部屋で、写真を見ながら手術の説明を受けた。上手くいったとのことだった。一週間後に抜歯、その後経過を見て3〜4日か、4〜5日で退院できるとのこと。 脳の手術なので、髪の毛剃るのかと思ったら、額の横あたりちょっと剃っただけのようである。麻酔から覚めてまだ少しぼんやりしていたが、 いま何時なのかとか、朝までいた部屋より狭いとか、とか、いろいろ言って、疲れてるようだが意識はしっかりしていたし、 手足もちゃんと動いてた。さすがに体がきついようで、きもち悪いとも言っていた。昼ごはんは食べたのか、とか飛行機の時間は大丈夫なのか、とか、 酸素マスクをつけた状態で人の心配をする。親っていうのはそういうものなのかもしれぬ。顔を見たら、ずいぶん老けたなと思った。
■五稜郭駅からJR。10月のダイヤ改正の大きなポスターが貼ってあった。五稜郭駅に停車する札幌行き特急が増えるらしい。便利になるのでうれしい。 函館駅からバスで空港へ。帰りはひさしぶりにAIR DOの便を利用。北海道の航空会社なので、たまには使ってあげたい。 羽田には定刻着。ちょうどいいバスがあったので、乗車し、津田沼まで。夜になっていた。
No.1431 2009-9-01
急行食堂
木古内駅前の急行食堂。

江差線の車窓
江差線の車窓。

■朝、バスで羽田空港。18番くらいの搭乗口から函館行きに乗ったら平日なのにけっこう乗ってる。 東北の太平洋沖あたりにある台風を西側から追い越して飛んで函館に着陸。少し揺れたくらいで飛行に特に影響はなかった。 着陸するちょっと前、いろんな色の畑が広がる景色がきれいだった。上空から函館市街を見てると、道を走る車が少ない。 空港からバスで函館駅。飛行機にはたくさん乗ってたのに、バスには数えられるくらいしか乗ってない。 駅前は、盆休みも過ぎて、観光客はさすがに少ないが、大きなリュックの白人系の外人がけっこういた。 江差線の列車に乗って、函館湾をぐるっと回って30kmほど西に行ったところにある木古内駅まで乗車。 一両だけなのでけっこう混みあう。といったもだいたいみんな座れるくらい。五稜郭駅の次の七重浜駅からが函館市のとなりの北斗市で、 上磯町と大野町が2006年に合併してできた人口5万人弱の町。でも「北斗市」というのが自分のなかでぜんぜん馴染まなくて、 いまだに上磯とか大野とか言ってしまう。
■七重浜駅と上磯駅で列車すれ違いのため、少しの間停車。 東久根別、久根別、清川口、上磯の四駅は、駅間距離が短い。老人と高校生が多い。日本中、都会以外の路線はどこへ行っても鉄道は高校生と老人を運んでいる。 北斗市役所の最寄駅になってる清川口駅でたくさん下車。名前のとおり、駅のちょっと手前にあった大野川の水は透きとおっててきれいだった。 外を見てると赤いトンボがたくさん飛んでいる。日差しはまだじりじり暑さを感じるが空気はひんやりしている。 上磯を過ぎると太平洋セメントの敷地をぐるっと避けるカーブがあり、そこを過ぎるとスピードが上がる。開けた窓から入ってくる風の勢いが強くなる。 徐々に景色は森の中のようになり、ときどきあるトンネルに入ると冷たい風が入ってきてここちいいが、ちょっと寒いくらい。 茂辺地駅でも老人が大量に下車。函館市内の病院へ行った帰りのようである。青森には野辺地があって、函館側には茂辺地がある。 おそらくアイヌ語由来の地名だと思うが、なにか関係があるのかもしれぬ。きれいな青い海がよく見える。少し波が高い。 茂辺地の次が先日、トラピスト修道院へ行くために利用した渡島当別駅で、ここまでが北斗市。次の釜谷駅から木古内町に入る。 釜谷駅のホームからも海が見える。途中の泉沢や札苅などの駅でも、少ないながら乗り降りがある。函館駅から一時間ほどかかって、木古内駅に到着。
■木古内駅は、本州から青函トンネルを抜けてきた列車が北海道に上陸して最初に停車する駅で、将来、北海道新幹線の停車駅となることが決まっているようである。 函館からの線路は、木古内駅で南北に分かれ、北西方向へ伸びるのが日本海側の江差までゆく江差線で、南西に向かうのが津軽海峡線である。 自分が知らないだけかもしれないが、これといった観光地もなく、「寒中みそぎ」というイベントがあるらしいが、どうにも地味な印象である。 駅の外に出るのは今回が初めて。ちょっと木古内町について調べてて気になったのは、1980年の人口が9514人だったのに、2009年6月末時点だと5469人になってる。 この30年の間に人が40%以上減った。ちょっと驚いた。これはまずいのではないか。しかもおそらくこれはこの町に限ったことではないのだろう。
■話が少しそれた。で、そんな町まで来たのは、駅前にある「急行食堂」で焼きそばを食べるためなのだった。以前からぜひ一度食べてみたいと思ってた。 まず、名前がいい。駅を出てすぐ、通りの左手に見える。昭和のたたずまいのその店に入ると、中はさらに懐かしい雰囲気。店主のおばあさんと、 手伝いらしきおばさんの二人が店内にいた。「お願い」という掲示があって、読んでみると、おばあさんは平成5年に障害を負ってしまい、 無理な仕事ができないので、急ぎの注文には応じられないということ、店の名前は「急行」だが、仕事は「ドン行」でやってるので、 そこをひとつ理解してほしい、といったことであった。で、焼きそばを注文したらめちゃめちゃうまかった。ソースのではなくて、 あんかけっぽいのだけどあんがかかってるわけではなくて、塩やきそばとも違うしかなり独特だった。にんじん、かまぼこ、たまねぎ、豚、しいたけ、 キャベツなどを炒めた具がたくさん、太めの麺。ステンレスの皿にたくさん盛られてて満腹になる。店主のおばあさんと少し話をした。 しっかりしたひとだった。遠くから来てくれてありがとうと言っていた。食べてると、近所のひとなのか、「また二つお願いねー」と言ってすぐ出ていく。 何人かそういう人がいたが、焼きそばの弁当もやってるみたいで、店の外の看板にも「名代 やきそば弁当」と書いてある。 サラリーマン風の男二人は焼きそば大盛りを頼んでた。平成20年4月25日の日付の新聞のコピーが壁に貼ってあった。この店が紹介されてる記事。 それによると、店主は現在81才で、店の歴史は53年。木古内駅に急行が停まるようにと願って「急行」と名づけたそうである。 もうすぐ、新幹線が停まることになる。でも、それに伴って駅前の開発が行われるから、立ち退きしなければならないかもしれない、ということである。
■駅に戻ると、入口に猫がいた。猫は売店に入っていって、店のおばさんに何か言われて、店から出てきた。 木古内から特急の自由席利用で函館へ。八戸発函館行きのスーパー白鳥は空いていた。昼間は五稜郭駅に特急が停まらないので、 函館まで行ってから普通列車で一駅折り返した。さっきのサラリーマン二人組も同じ車両に乗った。五稜郭駅に到着。午後になっていた。
■実家に向かう途中に、函館市立病院がある。そこに母が入院してるのだった。でかい病院である。以前、父も手術で世話になった。 脳の血管の動脈瘤除去手術をやることになったので、入院したんである。総合案内で病室を尋ね、4階の脳外科のある病棟へ。 入院患者の見舞いは午後からということになってるようだ。いちばん端の部屋で、 廊下突き当たりの窓から実家が見える。函館の港の海面がきらきら光っててまぶしい。母の病室からは函館山が見えて、市街が一望でき、眺めがいい。 母は病気で入院してるわけではないので、いつもどおり元気だった。窓から景色や通りを歩く人たちを見ていた。 バス停でいつまでもバスを待ってる兄ちゃんや、点滴をがらがら引きずりながらたばこを吸いに行くおっさん、手をぐるぐる回しながら道路を渡る子供などを見ていた。 頼まれて、実家から風呂敷とペットボトルのお茶を取りに行ったりした。こういうとき、近いからいい。夕方再び病室を訪ね、 しばらくしたら兄(上海長期出張中)の奥さんが来たので、母の入院中、車で父が世話になってる施設へ。甥っ子たちも一緒に行った。函館の町の外れにある。 年寄りなどを短期間預かる施設なのだと思う。父も元気そうだった。リハビリの成果なのか、体も以前よりずいぶん動くようだ。 しばらくしてから実家へ。今回の帰省は地元の友人に連絡しなかったので、誰とも会わなかった。夜は面会時間終了のちょっと前に夕刊を持って病室へ。 窓から見える夜景がきれいだった。近くのショッピングセンターの本屋で本を一冊買い、CLOEにコーヒーを飲みにいった。寒いくらいの空気だった。
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