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No.1282 2008-3-30
東漸寺と桜

■午後から自転車で近所を散歩。まろにえ橋、ワイがや通り経由、国道14号のアンポンタンでおいしいパンを購入。もう少し走ろうと思っていたが、 雨がぽつぽつ落ちてきたので、すぐに帰宅。ワイがや通りの商店街に隣接している東漸寺の門の前には、りっぱな桜の木が満開の花を咲かせていた。
■ところでチベットの問題である。テレビはほとんど見ないので、ニュースはウェブ上のものしか目にしていないが、大変なことになっているようで、 どうしたものだろうか。他人事とは思えないのは、おそらくチベットの次は台湾、そしてその次は日本だからだ。いま民族弾圧に苦しむチベットは、 そう遠くない将来の日本だ。残念なことだが、私が生きている間に、必ずや中国による軍事侵攻があるだろう。
■ここのところずっと、週に一度の更新となってしまっているので、もう少しがんばって更新したい。
No.1281 2008-3-23
富浦の海沿いの道

富津岬から見た浅瀬と子供

■18きっぷが残っているので、久しぶりに自転車をかついで鉄道で輪行をしてきた。朝の早い電車で千葉まで行き、内房線に乗り換え。朝の下り列車は空いているだろう、 と甘く考えていたら、けっこう乗客が多かった。といっても、みんな座れるくらいの混雑度。主に部活動に行く高校生と、ゴルフバッグを持った中年と、 山登りの格好をした年輩の者、といった乗客の構成。蘇我、五井、木更津あたりで降りる者が多かった。乗ってくる者はあまりいないので、 だんだん車内ががらんとしてくる。菜の花が咲いているのが見える。時々海が見える。
■館山駅に到着して下車。半年に一回くらい館山駅に来ているような気がする。前に来たのは、輪行で千倉から野島崎を経由して館山まで自転車で走ったときだった。昨年の夏である。 駅前で袋から自転車を出し、畳んであるのを戻して走り出す。折りたたんだり戻したり、袋に入れたりする作業は、もうずいぶん慣れた。駅前から北条海岸に出ると、 海岸と道路の整備工事が行われていた。海沿いの道を、道なりに北へ向かって走る。那古船形駅のそばから漁港の方向へ。日曜日だからか、漁船がたくさん港に繋留されている。 漁師町の細い路地を走ると、春の彼岸ということか、和菓子の店が早くから開いていて、客が何人かいた。 漁港のあたりから国道に出るあたり、諏訪神社のとなりに大福寺という寺があり、「崖の観音」という案内看板が出ていた。確かに、崖にへばりつくように赤い堂が建っているのが見えた。
■内房線の線路と平行に走る国道127号線を北へ。館山市から南房総市に入り、富浦駅、岩井駅のそばを通って鋸南町に入る。途中、いくつもトンネルがあり、 自動車の交通量が多いので恐ろしい。去年の夏、房総半島の南端を走ったとき、海沿いだから平坦な土地が多くて、案外楽なのではないか、と甘い考えで行ってみたら、 海の際まで山がせり出していて、アップダウンが非常に多く、えらい目にあった。今回も同じ目に遭い、特に長い上り坂などは、なかなかたいへんだったが、 前のときは、自転車を買ったばかりで、がむしゃらにペダルをこいでいたのでとても疲れたが、今回は、タイヤを、細くてよく走るのに換えていたのと、 半年以上乗ってみて、ギアの選択や、ギアを落とすタイミングが、いくらかうまくなったからか、ゆっくり走って、前より楽に坂を越えられるようになった。
■安房勝山の駅の前を通り、海のすぐそばにこんもりした山が見えた。しばらく進むと道の駅があり、なかなか賑わっているようだった。 今では当たり前のように「道の駅」と言っているが、よく考えたら、道の駅っていったいなんだ。へんじゃないか。「道」の「駅」といったら、 言葉の意味からいくと、バス停とか、路面電車の停留所とか、そういったものになるような気もするのだが。よくわからないことになっている。 それはそれとして、そこには菱川師宣記念館という施設もあった。どうやらこのあたりの土地で生まれた人らしい。 保田駅を過ぎると、鋸山へ登る有料道路の入口や、ロープウェイの乗り口があった。見上げると、切り立った崖がずっと続いていて、迫力がある。
■富津市に入ってまもなく、浜金谷の、久里浜行きのフェリー乗り場の前を通り、国道127号線で竹岡駅、上総湊駅のあたりを通過。 相変わらず坂が多く、トンネルも多い。時々、自動車用のトンネルと歩行者・自転車用のトンネルが別になっている箇所もあるが、ほとんどがそうではないので、 トンネル内は危ないからなるべく急いで通り抜けた。崖の上から海を見下ろすと、水が透き通っていてきれいだった。岩場には釣り人がけっこういた。 ずいぶん沖のほうの岩場にもいて、どうやってあそこまで行ったんだろうかと思った。崖を見ると、地層が斜めになっているのがはっきり見えて、 昔学校で習った「地層の隆起」とか「沈降」とかそういう言葉を思い出した。
■佐貫町駅の前を通ると、小さな駅だが駅員がいて、キオスクが営業していた。ちょうど列車が到着したようで、降りてきた者達がぞくぞく路線バスに乗っていった。 キオスクのおばちゃんとタクシーの運転手が立ち話をし、タクシー会社のおっさんが、駅の駐輪場のあたりの雑草をむしっていた。ひと気があるのでさびしい感じはなく、 のんびりした雰囲気の駅前である。
■駅前に食堂があって、ちょうど昼時だったので入ってみた。客はだらだらしたおやじが一人だけだった。 よくわからないが、食堂の隣に不動産屋があり、中でつながっていた。どうやらこの土地の売りは「はかりめ」らしく、 「はかりめ丼」というのがメニューの中でひときわ目立っている。そういえばこの食堂の前とか駅のあたりにも「はかりめ」と書かれた赤い幟がいくつも立っていた。 ことによると、「はかりめ」を町の名物にしようとしているのではないか。で、ここまで書いて「はかりめ」っていうのはいったいなんだと思う向きもあると思うが、 ようするに「あなご」のことだった。富津ではあなごのことを、はかりめ、と言うらしい。どうしてそう言うのか、という説明が書かれた紙が手元にあるが、 気になるかたはグーグルとかで調べてください。私は調べてないが、たぶんなんか書いてあるだろう。
■で、はかりめ丼を頼んだ。感想は、端的に言うと、 あまりインパクトがなかった。おいしくないわけではなくて、あなごというと、タレがたっぷりついたあの味を思い出すので、それとはちがって、タレのようなものが少しだけついている感じだった。 素材の味をより味わってほしいということかもしれない。店によってもちがうかもしれない。とてもおいしい、というわけではないが、まあふつうである。 店のおばさんが感じよかった。店内のテレビでは、ニュースでアクアラインの事故と、土浦の通り魔事件のこと、その後のど自慢。藤あやこと氷川きよしが出ていた。 布袋のベビベビベイビベイビというやつを熱唱したおやじがおもしろかった。食後にアイスコーヒーが出て、ちょっと嬉しい。飲んでたら、客がもう一人入ってきて、みそラーメンを食べていた。
上空から見た富津公園 ■食堂を出てから佐貫町駅前の国道465号線を走り、大貫駅のすぐ前を通り抜けて西の方向へ。しばらく走ると、富津公園に着いた。大きな国定公園である。 プールとか、貸しボートとか、フランクフルトとかいろいろある。車がたくさん来ていて、散歩している者も多い。先日、九州へ行く飛行機の中から、この公園が見えた。 はっきりわかるのは、上空から見たとき、東京湾に向かって突き出ている地形で、それが一体どういうことになっているのかと気になっていたので、 自転車で行ってみたわけである。公園内に入ってから、道の両側には林があり、かなり自転車で走って、ようやく岬までたどりついた。「岬」ということばをきくと、 海に突き出た断崖と灯台のある景色が思い浮かぶが、ここはそういうのはなくて、平らで、砂浜だった。複雑な形の展望台があり、岬からすぐ近くの海上に「第一海堡」と呼ばれる島が見える。 たぶん戦争のときの軍事的な何かがあった島なのではないか。海はきれいで、風があまりなくとてもおだやかで、対岸の神奈川の様子が少しかすんで見えた。水上バイクみたいなやつで走り回っている者らがいた。 浅瀬で水遊びをする子供や、砂浜に木の枝で絵や文字を書く者、キャンプ用の椅子やテーブルを出してくつろいでいる者、バイクのツーリングで立ち寄った者など、いろいろいた。
右の画像の、林になっているあたり一帯が富津公園で、先端が富津岬、その少し先にある島が第一海堡である。3月8日撮影。
■公園をあとにして、国道16号線を北上。ようやく、坂がほとんどなくなった。青堀駅前を過ぎて君津市に入り、大和田という交差点から東に曲がって、夕焼け通りという道に入り、 君津駅北口に到着。君津という町はにぎやかなイメージがあったが、人がぜんぜん歩いてなくて、たまに老人が歩いているくらいだった。というか、旅行などで地方へ行くと、 どこに行っても、子供はあまり見かけなくて、老人ばかり目につく。これからもっと老人が増えるのだろう。つらい世の中である。 自転車を畳んで袋に入れ、かついで駅へ。総武線直通の快速電車がちょうどあったので、乗車。乗り換えなしで津田沼まで戻ることができた。 ひさしぶりの輪行は、走行距離約73.4キロ。道中、あちこちで道路工事が行われていた。三月は道路工事が多いから、 自転車で走るのは気をつけないといけないと思った。
■上の画像は、富浦の海沿いの道と、富津岬から見た浅瀬。
No.1280 2008-3-15
フクダ電子アリーナ
■2008年Jリーグ一部第二節、千葉対清水。フクダ電子アリーナ。
■試合は1−2で千葉は敗戦。普通に、力負けという試合だったと思う。今はまだ辛抱して見守る時期だと思うので、それほど悲観していない。 清水の応援は聞いていて楽しい。なんだろうあのセンスは。いいなあと思う。
No.1279 2008-3-09
小内海駅
■海が見える駅、日南線小内海駅。

宮崎、鵜戸神宮
■宮崎、鵜戸神宮。

飫肥城、松尾の丸
■飫肥城、松尾の丸。

日南線の列車
■日南線の終点、志布志駅にて。

■ホテルの朝食は和食で、なかなかおいしかった。いつもなら、始発列車で発つことが多いので、ホテルで朝ごはんを食べることはほとんどないが、 たまにはいいものである。予報では、朝から雨。まだ降りだしていないが、今にも降りそうな空。一日、日南線の沿線を観光。 宮崎駅から18きっぷで、日南線の二番列車に乗車。二両編成。この路線は、南宮崎から志布志までのおよそ90キロの区間を、日南海岸に沿ったり離れたりしながら、 3時間ほどかけて走る。実際にはほとんどの列車が宮崎駅まで乗り入れており、一部列車は日豊本線の佐土原や高鍋まで乗り入れている。 一日に一往復の快速列車があり、全線通して走る列車は一日10往復くらい。他に一部区間だけ走る列車もあるので、ローカル線の中では、 そんなに本数が少ないわけでもないが、それは木次線や五能線みたいに極端に本数の少ない路線と比べればという話で、日常の足としてはもちろん、 観光に利用するにしても、やはり不便である。
■宮崎駅を発って大きな川を渡り、南宮崎駅へ。ここが日豊本線と日南線の分岐駅で、車両基地のようになっている。 別のホームに停まっている列車に、例の知事の写真がプリントされているのが見えた。徐々に町から離れ、畑が広がる景色になる。田吉という駅からは、 宮崎空港まで一駅だけの路線が分岐していて、田吉のあたりからも空港の管制塔や滑走路などが見える。大きな道路に沿って、ヤシの木みたいな、 フェニックスというんだろうか、そういった種類のいかにも南国の木が等間隔で植えられている。運動公園という駅があり、たしか二年前くらいの天皇杯で、 ジェフ千葉の下部組織のジェフクラブ(現ジェフリザーブズ)が、宮崎のなんとかという大学と対戦した会場がこの運動公園の駅のそばの競技場だったと思う。 停車する列車内からも、運動公園らしき施設が見えた。子供の国という駅もあった。遊園地的な何かがあるのだろうか。まだ朝早い時間だったせいか、 運動公園駅や子供の国駅で乗下車する者はいなかった。内海という駅があるあたりは、その名のとおり、海が内陸まで入り込んでいて、漁港になっている。 次の駅が小内海で、このあたりは、列車の窓から海がよく見える。
■一時間弱の乗車で伊比井という駅に到着し、下車。無人駅である。道路から少し高くなっている場所に駅があり、道路に下りるには階段を下る。 階段にはプランタがいくつも置かれていて、花が咲いていた。猫除けのためか、焼酎の大きなペットボトルがいくつか置いてあった。 小さな駅舎の中は、ベンチと、学校で生徒が座るような椅子が置いてある以外は何もなく、どこの無人駅もそうだが、ここも、かつては切符の販売窓口があったようで、 現在はガラス戸が閉められ、カーテンが引かれている。すぐそこが海だが、ホームからは見えず、志布志方面の線路の先を見ると、結構な高さの山がそびえている。 少し時間があるので、海まで歩いてみた。すぐに砂浜に着き、波打ち際まで寄ってみるた。白い砂浜である。岩場の岩を見ると、ぼこぼこ小さな穴がたくさんあいていて、 奇妙だった。溶岩とかそういったものが原因だろうか。普通の海水の浸食とは違う感じがした。空はどんよりしているが、ここの海も、南国のような緑がかった色をしていた。
■駅前まで戻り、路線バスに乗車。雨が降り始めた。海岸線に沿って南へ。「潮小学校前」だとか「宮浦」など、海沿いらしい名前のバス停があり、 天気がよければとても気持ちのいい景色が楽しめる道だと思う。海に沿ったままどんどん高い場所へ登ってゆき、崖の上を走るような感じになる。 15分ほどで鵜戸神宮参道入口というバス停に到着し、下車。ガソリンスタンドがある角を曲がり、崖の下に漁港が見え、もう少し歩くと、大型バスも停まれる広い駐車場があり、 その先に、鵜戸神宮の参道がある。鳥居があり、銘の入った大きな石碑が建っている。石段をひたすら登って、下って、一山越えると神宮の門の前に出る。 朱に塗られた柵の向こうには断崖と海が見える。これほど断崖の間近にある神社は、他にはあまりないのではないか。私が知らないだけかもしれないが。 とにかくロケーションだけでも圧倒された。まだ午前中の早い時間帯だったが、それなりに参拝客が来ていた。階段を下りてゆくと、崖に穿たれた大きな洞窟のような空間の中に本堂があり、 薄暗くて独特な雰囲気である。うまく言葉で説明できないが、とにかくすごいので、機会があれば見にいくといいと思う。暗がりの中に、撫でうさぎというのが置かれていて、 うさぎの像を撫でると、なにかいいらしい。一通り見て回って、そろそろいいかな、と思ったあたりでちょうど団体の観光客が来たので、急いで立ち去った。 私はあの団体が苦手である。とにかくうるさい。おっさんおばさんがはしゃいでいるのが醜い。それはそれとして、来た道を戻るために、 またあの石段を登るのか、と少々気が重くなっていたのだけど、ふと別の道があるのに気づき、先ほど登った山の下をくぐるトンネルがあるのだった。 売店で夏みかんをしぼったジュースを一杯買って飲んだら、店のおばさんがみかんをくれた。バス停まで戻り、バスを待っていると雨が強く降りだした。
■バスはほぼ時間通りに来て、乗車。観光バスみたいな路線バスである。海岸線を走り、20分ほどで油津駅に到着。駅前のタクシー会社の駐車場に猫がいたので、 立ち止まって見ていると、タクシー会社の男が、観光?と声をかけてきた。どこから、と言うので、千葉から、というと、驚いていた。この辺は九州の人しか来ないよ、 などと言っていた。油津駅の中に入ると、いきなり猫が、にゃと言ってきた。木のベンチの上に猫が一匹いて、こちらに向かってきたので撫でてやったら、 足の周りにまとわりついた。とても人懐こい猫だった。この駅は有人駅である。時間があまりなかったので猫とは別れてホームへ。黄色い車両の一両だけの列車に乗車。
■宮崎駅方向に二駅戻って、飫肥(おび)駅で下車。この駅も有人だった。駅舎は瓦屋根になまこ壁。立派な車寄せもあり、おそらく城をイメージしたものだと思われる。 駅前には小さなロータリーがあり、レンタサイクルもあるようだが、雨天なので、営業していなかったようだ。駅から西へ向かって歩き、稲荷神社の赤い鳥居を左手に見ながら酒谷川に架かる橋を渡り、 さらに西へ歩くと、だんだん城下町のような風情になってきて、バス停や電話ボックスも木製だった。北に向かってゆるやかな上り坂になっていて、坂を上がったところに、飫肥城の大手門が見える。 そちらに向かって歩くと、小村寿太郎生誕の地の石碑があった。日露戦争の後、ポーツマスで日露講和条約を結んだときの外交責任者である。 小村侯の略年譜があったので読んでみたら、房総が生んだ日本が誇る偉人、伊能忠敬が、1810年、測量の作業でこの地を訪れたとき、小村家に宿泊したそうだ。 小村寿太郎は1855年生まれなので、そのときはまだ生まれてなかった。城のそばの通りの端の水路には鯉が放流されていた。津和野の殿町通りによく似ている。 飫肥の城下町は「日南市飫肥伝統的建造物群保存地区」として昭和52年、国の指定を受けている。九州で最初の重要伝統的建造物群保存地区だそうである。
■飫肥城のすぐ前に豫章館という建物があり、まずはそこで「飫肥城 通行手形」という、城内、城下の6施設共通入場券を購入。大人600円だった。 豫章館は、1869年、知事に任命された飫肥藩主の伊東祐帰が城内から転居した屋敷、ということで、とても立派な屋敷である。屋敷の中に入ることはできないが、 大きく、装飾的な瓦屋根と、開口部が多く、長い縁側があり、風通しの良さそうな、開放的な作りが印象的である。庭も手入れが行き届いていて、 きれいだった。南の方角にある山並みを借景としている。和風の庭園にソテツや棕櫚の木があって、見慣れない感じがしたが、それほど違和感はなかった。
■大手門から飫肥城内に入った。「日本100名城」に選ばれているようである。大手門は、1978年に復元されたもの。踏面の広い石段を登ってゆくと、 城内には大きな杉林があり、飫肥杉といって、この地の名産らしい。城内の一角には、1979年に復元された「松尾の丸」という、飫肥城を構成した建物の一つがあって、 この見学にも「飫肥城 通行手形」が使える。説明書きによると「江戸時代初期の書院造の御殿」とのことである。中に入ると、廊下も畳敷きである。 やたらたくさん部屋があって、違い棚のある寝室とか茶室だとか、竃のある調理場、桧づくりの蒸し風呂まである。畳の上に腰を下ろして、屋根から伝って流れ落ちる雨の雫をぼんやり眺めていると、 よくわからないが、日本人でよかったと思える。
松尾の丸を出て、城の本丸跡を見に行ってみた。また大きな石段を少し登る。がらんとした場所が、かつて本丸のあった場所のようで、今は大きな杉が林立していて、薄暗い。 裏手の門があり、階段で城の裏手の道路に下りられるようになっている。その門の向こうは、グラウンドとなっていて、雨の中、高校生くらいの者達が野球の試合をしていた。
■大手門からすぐ近い場所にある店で食事をとった。飫肥天うどんを注文。うどんは西日本の味。飫肥天というのは、魚のすり身で作った練り物で、飫肥地方に伝わる料理らしい。 鹿児島のさつま揚げのような感じだが、甘い。砂糖が入っているのだと思う。すり身に豆腐が混ざっていて、さつま揚げと比べてふわっとしている。 練り物はだいたい好きで、おでんの具材とか、さつま揚げとか瀬戸内のじゃこ天もおいしいし、この飫肥天もなかなかおいしかった。 飫肥は厚焼きたまごも名物らしく、これもとても甘いらしい。お菓子のような感覚で食べるようである。
■食事してから、城下町を歩いてみた。横馬場通りには、敷地の周囲を石垣で囲んだ武家屋敷が現存し、古い蔵を利用した店舗などもある。 旧伊東伝左衛門家に立ち寄って、縁側に座ってみた。ここは無料で開放している。説明書きによると、飫肥藩の上級武士の典型的な住居だそうで、 豫章館もそうだったが、床下を高くしてあるのは、夏の暑さや湿気対策か。枯山水の庭もあった。
飫肥藩の藩校として天保2年(1831年)に藩主祐相(すけとも)によって建築された振徳堂を見学。こちらも無料で開放している。 広い敷地に大きく立派な、一見すると寺のような建物で、東西南北の襖が開いた状態になっていて、見るからに夏は涼しそうだが、冬は寒そうだ。 ここで小村寿太郎も勉学に励んでいたらしい。
城の方に戻り、飫肥城歴史資料館にも入ってみた。ここは「飫肥城 通行手形」で入場できる。城に見立てた建物だが、あまり大きなものではなく、 展示史料室も、15分もあれば一通り見終わってしまうくらいの規模だった。刀剣類や甲冑、具足等の武器防具や印籠、蹴鞠、書、その他いろいろ、土地に縁のあるものが展示されている。
続けて、城のすぐそばにある小村記念館を見学。ここも「飫肥城 通行手形」が利用可能。 常設展示は、明治時代に二度外務大臣を務め、明治38年にポーツマス条約を調印し日露戦争を終結に導いた小村寿太郎の輝かしい功績にまつわる様々な史料である。 文書や着用していた衣類、授与された勲章、愛用していた道具、直筆の手紙などなど、丁寧に展示されているが、一番印象に残ったのは、小村寿太郎の身長が156センチだったということで、 思いのほか小柄だったのだなと思った。どういったわけか、別スペースで行われていた特別展示は「東海道五十三次」展で、歌川広重の「東海道五十三次絵」のレプリカがたくさん並べられていた。
■歩いて駅まで戻り、日南線の下り列車に乗車。油津から大堂津のあたりの区間は、海がよく見えた。途中、串間という駅のあたりが、そこそこ町らしい町に見えたが、 それほど乗り降りする者もおらず、相変わらず列車は空いていた。この路線の大半は宮崎県内を走るが、最後の二駅だけ、鹿児島県内にあり、今回の旅行では三度、県境を越えて鹿児島県に入った。 終点の志布志駅に到着。無人駅だった。2006年に訪れた、九州の南の果て、指宿枕崎線の終点である枕崎駅は、駅舎もなく、ホームがあるだけのつまらない駅だったが、 もう一方の九州の果ての駅であるこの志布志駅は、小さいながらも駅舎があり、駅前にはロータリーがあってタクシーも一台か二台くらい客待ちをしていた。駅ノートもあった。 かつてこの駅は、志布志線、大隅線も乗り入れるターミナル駅だったというが、そういった面影はほとんどない。線路の終端には砂利がかぶせられ、 レールを湾曲させた車止めがある。いかにも終着駅という風情である。小さな子供とその母親が列車を見に来ていて、 子供は、列車が折り返し発車していくのが見たいと言っていたが、この列車が発車するのは約1時間40分後なのだった。どうしても見たい、運転手さん発車させて、 とがんばって主張していたが、運転手さんは困った顔で笑うしかなかった。そのうち親子はどこかへ行った。
■駅前から南西方向に幅の広い道路があり、その道路沿いには「サンポートしぶしアピア」という商業施設があり、コープだとか書店、飲食店、 ゲームセンター、インターネットカフェなどが入っていて、おそらくこのあたりの地域随一のショッピングセンターなのではないか。 入ってみると、なかなかの賑わいを見せていた。飲み物など、生協のオリジナル商品が安かった。サンポートしぶしアピアの南側には大きな公園があるが、 人はほとんどおらず、犬の散歩をする老人が一人歩いているだけだった。その隣には志布志警察署があり、その先は港になっていて、 東京や大阪行きのフェリーの乗り場があった。駅まで戻る途中、「割烹たけだ」という店があり、なにかの縁を感じた。たいした縁ではないが。
■宮崎行きの列車に乗車。すれちがう下り列車を見ると、そこそこ乗客が乗っていたが、こちらの列車はとても乗客が少なかった。 時々海岸線が現れ、時々山深い景色になり、徐々に日南線を北上。そういった車窓を眺め続けているうちにだんだん暗くなり、宮崎駅に到着。 「椎茸めし」という、宮崎駅で昔から売られている駅弁を購入。調べてみたら、1952年から販売しているという。
■宮崎空港行きの列車に乗車し、10分ほどで宮崎空港駅に到着。鉄道駅と空港が隣接していて、便利である。宮崎空港は、結構大きくて広かった。 空港のラウンジで「椎茸めし」を食べた。肉厚の椎茸がおいしかった。羽田行きの便に搭乗。羽田の滑走路混雑とかなんとかで、離陸が25分ほど遅れた。 私は、航空機のこのへんのルーズさが、どうも気に入らない。どうして遅れるのかと思う。羽田なんて、搭乗してから、なんだか知らないが延々滑走路の上を走り続けたりする。 確かに航空機は速いが、平気で遅れるのは、なんとかならないかと思う。あと、手荷物の数や大きさは、航空会社がもう少し厳しく制限していいのではないか。 一応サイズや重量で制限があるはずだが、守らない人間が多すぎる。手荷物スペースが足らなくなって、あっちはどうだこっちは空いてない、とかやってる連中が通路をふさいでいるせいで、 搭乗するときに行列ができるのもいやだ。無料航空券で乗っておいて文句ばかり言うのもどうかと思うが。
■それはそれとして、定刻より20分少々遅れて羽田着。津田沼行きのリムジンバスに乗車。めずらしく空いていた。
No.1278 2008-3-08
機内から見た富士山
■鹿児島行きの機内から富士山。

入来麓、玉石垣の武家屋敷群
■入来麓、玉石垣の武家屋敷群。

桜島
■桜島。

吉松駅
■吉松駅。

■朝早い便に乗って羽田から鹿児島へ。
■今回の旅行は、全日空のマイルで交換した国内往復又は2区間の無料航空券で九州へ行き、九州南部の未乗JR路線を乗車すること、宮崎県内に宿泊すること、 そして、自動車を使わないで、公共交通機関だけでもこれだけ観光できるというのを見せつける、という目的である。一体誰に見せつけるのかはよくわからないが。 この時期を選んだのは、青春18きっぷ使用が使用可能だからである。
■いつも思うが、羽田は朝早くから人がたくさんいてすごい。 羽田の一番端の、56番搭乗口から機内へ。よく晴れていたので、上空からは、東京湾に突き出た富津岬や富士山、高知の室戸岬などがきれいに見えた。
■ほぼ定刻通りに鹿児島空港に到着。空港内は閑散としており、手荷物検査場の職員達はのんびり談笑などしている。羽田の検査場の殺伐とした感じとは対照的だ。 うっかり早速、売店でさつまあげを買ってしまった。あったかくてうまい。建物の外に出ると、目の前には、Jリーグのクラブのフラッグがたくさんはためいていた。 清水や名古屋、柏、鳥栖、愛媛、磐田などなど。あとプロ野球のもあった。おそらく鹿児島でシーズン前のキャンプを行ったのではないか。 空港の前に足湯があったが、まだ営業していなかった。6番乗り場から川内駅方面行きの連絡バスに乗車。乗客は、自分含めて6人くらい。
■50分弱の乗車で、入来中学校前というバス停に到着し、下車。5分ほど歩いて、国道328号線から薩摩川内市の入来支所のあるあたりに入っていくと、 武家屋敷群がある入来麓という町に着いた。各戸の敷地の外周には、角の無い丸い小ぶりな石を積んで作った石垣がめぐらされていて、独特な町並みを作り出している。 この武家屋敷群は「入来麓伝統的建造物群保存地区」として平成16年9月に国の指定を受けているようである。この町のすぐそばを樋脇川という川が流れていて、 そこの川原から採れた石を使っているのではないだろうか。武家屋敷群ということなんだが、今も人が住んでいる個人の住宅なので、敷地に中に入って見ることはほとんどできないのは少し残念である。 でも道路から町並みを眺めるだけでも十分すばらしいもので、立派な茅葺の屋根を持つ門や、少し高さのある石造りの蔵などなど、見所は多い。 道路の案内標識を見ると、「武家屋敷群」の英語表記が「Samurai Residences」となっていた。町の中は人通りはほとんどないが、自動車の通行量はそこそこある。 おばあさんなどはすれ違いざま、にこやかにこんにちはと挨拶してくれて、感じがいい。町の外れのファミリーマートの駐車場の敷地内のような場所で、地元の野菜などを販売する催しが開かれていた。
■入来麓というバス停から路線バスに乗車。バス停のベンチに腰かけて待っている間、ふと気づいたが、町がとても静かだった。路線バスは、座席の前後の間隔が狭くて、足が窮屈だった。 学校や病院の前など、小まめにバス停が設置されているが、利用者はとても少ない。高齢者がときどき乗ってきてはすぐに降りてゆく感じ。 携帯電話のウェブで、この日開幕したJリーグの試合の様子をときどきチェックしていた。約50分ほどの乗車で川内駅に到着。
■川内駅は、九州新幹線の停車駅となっており、近代的で清潔な、なかなか大きな駅である。駅前には「能『鳥追舟』の里」という題名の、面をかぶった者と童子の二体の銅像があった。 どういうものかはよくわからないが、おそらく舟で鳥を追ったりするのではないか。駅の中に入ると、改札は二階にある。 改札の前には「日本一 川内大綱引」と紹介が書かれて、やたら巨大な綱が展示されている。長さが365メートル、太さが35センチ、重さ5トンらしい。 「見て興奮!引いて感動!」だそうだ。観光案内所やお土産店があるが、人はあまりいなくて閑散としている。西側を見ると、低い山並みが見える。 改札を済ませてホームへ降りた。ホーム上には「新田神社」と書かれた赤い灯篭のようなものが立っていた。ホームの端には、第三セクターの肥薩おれんじ鉄道の駅がある。 九州新幹線の開通に伴い、JRの在来線である鹿児島本線の一部、川内から熊本の八代までの区間が別会社となってしまった。2006年に、九州新幹線に乗車したが、 トンネルばかりでおもしろくなかった。肥薩おれんじ鉄道は、海沿いを走るので、きれいな景色が車窓から楽しめるそうだ。いつか乗車してみたい。
■鹿児島本線の中で、川内〜鹿児島中央の間が未乗だったので、まずはこの区間から乗車。黒と銀の、シンプルだがとても現代的なデザインの車両だった。二両編成で、 進行方向に合わせて背もたれをばたんと動かせる、いわゆる転換クロスシートというタイプの座席で、シートのデザインも凝っている。 最初のうちは、乗客もそれほど多くなく、山の中のような景色が続いた。終点近くなって、立ち客も出るくらいの乗客数となった。 バスだと、20分も乗っていると、だんだん降りたくなってくるが、列車だとそういうことはなく、ずっと乗っていたい気持ちにさえなる。 終点の鹿児島中央駅まで、約45分ほどで到着。鹿児島中央駅は、人が大勢いて、賑わっていた。駅から見える景色も、行き交う人の姿も、 どこか都会の感じがする。すぐに日豊本線の列車に乗り換え。走り出してまもなく、右手に、桜島がきれいに見えた。2年まえに鹿児島を訪れたときは、 雲がかかっていてあまりよく見えなかったが、今回はよく見えた。ごつごつしている印象。なかなかいいものである。
■隼人駅から東の区間が、日豊本線の中で初めて乗車する区間となる。きれいな菜の花畑が広がっていた。隼人、国分、霧島神宮などの駅を過ぎ、 いつの間にかずいぶん高い場所を走っていることに気づいた。それから4駅ほど過ぎると、県境を越えて宮崎県に入る。宮崎に入って3駅目、 都城駅で下車し、吉都線に乗り換え。吉松と都城を結ぶ線である。その両端の駅以外、見た感じだと、全てが無人駅だった。えびの駅は、木造の古めかしい駅舎が残されていた。 昔ながらの、天井に扇風機がついている車両で、二両連結しているが、乗客はとても少ない。西の方向を見ると、高い山がそびえているのが見える。 だんだん日が西に傾いてきて、まぶしい。そういえば乗ってきたどの列車にも、ドアに「床に座らないでください」という注意書きが貼られていた。 そんなに床に座る者が多いのだろうか。たしかに、地方の路線に乗ると、高校生らが床に座っているのをよく見かける。高原らしい森と、畑と、ときどき町が見えるような車窓。 吉松の一つ手前の鶴丸駅から、再び鹿児島県に入り、一時間半ほどで吉松駅に到着。肥薩線との乗換駅である。ホームの屋根や柱や、閉まった売店のシャッターはさびていて、 山の中のさびしい乗換駅はなんだか、旅情というんだろうか、そういったものがとても感じられる。改札口には、どういうわけか、大きな甕が置いてあった。駅には座敷の待合室がある。
■都城行きの列車に乗り、来た道を戻る。まぶしかった西日も山の陰にかくれ、きれいな夕焼け空に山のシルエットが映えている。相変わらず乗客は少ない。 さすがに九州は、関東とくらべて経度がずいぶん西なので、日没時刻も遅く、午後6時半くらいまで外の様子が見えるくらいであった。都城駅に到着し、 次の列車まで少し時間があったので、駅前のファミリーマートで少し買物。そういえば九州に来てから、コンビニエンスストアというとファミリーマートがやけに多いように感じた。 日豊線の宮崎行きの列車に乗車。地方の夜は暗い。暗い中を列車は走り、少しずつ明るくなって町の中に入ってゆくと、一時間弱で宮崎駅に到着。 駅はまだ人も多く、店も開いている。人気のある県知事の写真やイラストがあちこちにあった。駅の東口にあるホテルに宿泊。
No.1277 2008-3-02
■南船橋のワイズロードまで行き、チェーンガードがない自転車に乗るとき、 ズボンのすそがチェーンに巻き込まれないようにしぼって抑えるバンドみたいなやつを買ってきた。反射材がついているので、夜は少し光るのではないか。
■ここのところ、少しあったかくなってきたせいか、自転車店の中は、客がたくさん来ていて、やはり人間も動物なので、あったかいと活動的になって、 自転車に乗ろうという気持ちになるのかなと思った。 いかつい兄ちゃんがマウンテンバイクを購入しているところに出くわしたが、なんだかうきうきしているようだった。気持ちはとてもわかる。
■前日通りかかったとき見つけた小さなパン屋に立ち寄ってみた。午後になっていたせいか、あまりパンがなかった。値段は若干高いように思ったが、 個人経営の店のようなので、それも仕方ないのかもしれない。いくつかパンを買ってみたが、味はよかった。 津田沼二丁目の「Boulangerie Le Bambou」という店。 まったく読めないが、どういう意味なのだろう。
No.1276 2008-3-01
東漸寺の六地蔵
■3月になった。
■いつもなら自転車に乗ってぶらぶらするところだが、久しぶりにゆっくり歩いてみた。 JR津田沼駅の南口に新しくオープンしたレンタルのツタヤの様子を外から見た。ガラス張りなので店内の様子がよく見える。 レジにものすごい人数が並んでいて驚いた。千葉工大の横を通り、必勝軒というラーメン屋は、ちょうど昼時ということもあってか、 こちらも大勢並んで待っている。人気のある店だそうだが、津田沼に住んで7年目くらいになるのにまだ食べたことがない。 習志野郵便局のある交差点を左に曲がり、京成津田沼駅の方向へ歩くと、右手にはエースレーンというボーリング場だ。 スリーエフというコンビニエンスストアの角を右折し、京成線の線路のちょっと手前に、またラーメン屋があり、となりにはパン屋があった。 小さな店がけっこうあちこちあって、津田沼に住んでそこそこ時間が経つが、意外と町のことは知らないものである。
京成津田沼駅の近くの駐車場 ■右の画像は、京成津田沼駅のそばにあるセブンイレブンの駐車場である。なにかいろいろ書いてあっておかしかったので撮影した。 京成津田沼駅前からワイがや通りに入り、みはし湯の脇の道を道なりに国道14号線方面へ。2月のはじめにこの津田沼ノートの中で、 古いゲーム機が店の前に並んでいる写真を紹介したが、その店というのは駄菓子屋で、古いゲーム機は、驚いたことに現役で、 子供たちが数人、ゲーム機で遊んでいた。駄菓子屋に入ってみた。おばあさんが店番をしていて、子供がなにか買っていた。 私も100円分、4品ほど駄菓子を買ってみた。少し進むと右手に久々田公園。ゲートボール場以外何もないがらんとした公園で、 前にも紹介したが「ボール遊び禁止」である。そんな硬いこと言わなくてもと思うのだが。 そして「津田沼」の地名の元になった三つの村の名前の一つがこの「久々田」の「田」で、あとの二つの「津」は「谷津」、「沼」は「鷺沼」である。 谷津と鷺沼は今も残っている地名だが、久々田は、この公園くらいしか地図上には残っていない。 JRの線路の近くにある「菊田神社」は、昔は「久々田大明神」と呼ばれていたそうだ。つまり、「ククダ」がいつのまにか「キクダ」になったというわけである。
■じゃあそもそも「久々田」というのはなんだ、ということになるが、はっきりとした由来はわかっていなくて、どうやら昔、 田のまわりに赤いクコの実がたくさん生っていて、そこから「クコ田」になったという説がいまのところ有力なのではないか、ということである。
「クコダ」→「ククダ」→「キクダ」
「谷」+「久々」+「鷺」→「津田沼」
といった具合である。今の京成津田沼駅のあるあたりが、かつてこの地域の中心部で、その一帯が久々田だったようである。 京成津田沼駅の踏切のすぐそばに、植草米店という昔ながらの米穀店あるが、そこの玄関口には古い表札が残っていて、「久々田村」という表記が確認できる。 そしてワイがや通りの周辺には、古い屋敷がちらほら残っている。
■ついでにいうと「鷺沼」という地名は、源頼朝が、鎌倉幕府を開いたときに作成した歴史書「吾妻鏡」に既に登場しており、 治承4年(1180年)、鷺沼の旅館に、頼朝と武士達が集まった、という記載があるらしい。ヤギのいるあたりも、頼朝などが歩いていたのかなと思うと、少し不思議な感じがする。
東漸寺の柱 ■国道14号線まで出て、鷺沼の交差点のヤギを見に行ったら、どうしたことか、姿が見えなかった。どうやらビリーという名前らしい。 柵にくっつけてある手書きの看板にそう書いてあった。ビリーはどうしたのだろうか。国道14号線を船橋方向へ少し歩くと、 アンポンタンというパン屋である。ここはちょくちょく行く。いくつかパンを買った。ワイがや通りに戻って、京成津田沼駅の方向へしばらく歩くと、 アーケードの商店街になり、店の間の石段を上がったところに東漸寺(とうぜんじ)がある。一度夏に訪問したが、ひさしぶりに墓地に入り、 寺の敷地をうろうろ歩いた。賽銭箱の上を見上げると、屋根が張り出していて、それを支える大きな二本の柱のうち、向かって右の柱は、 複雑な接ぎ方をしている。右の画像がそれである。四面とも、同じような接ぎ目が見えていて、どうなっているのかよくわからない。 おそらく、今の職人さんでもこの接ぎ方はできないのではないか。いちばん上の画像は、東漸寺の門のところにある六地蔵である。
■京成津田沼の駅の脇の踏切を渡り、読売新聞の販売店の前を通って千葉工大の手前で左に曲がって団地の中を通っていたら、猫が二匹いた。 ぎりぎりまで近寄ったら逃げていった。JRの線路を越える跨線橋を渡って、ジャスコで買物をして、帰った。
■よく自転車で走っているあたりをゆっくり歩いてみると、またいろいろ見えてくるなと思った。最初あったかかったが、急に曇って、 冷たい風がふいて、ぽつぽつと雨が落ちて、すぐにやんで、晴れたり曇ったりへんな天気だった。
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