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No.1261 2007-12-30
寝台特急富士で、熱心に外の景色を見る少年
■列車が停車しているとき、うとうとと目を覚ます。午前6時ちょうどくらい。外を見ると、駅の灯りのようで、どこだろうかと眼鏡をかけて目を凝らすと名古屋だった。 定刻よりおよそ45分の遅れ。このあと、静岡県内の都市圏に入ってゆき、鉄道ダイヤが混みあっているため、ホームでの退避等が多くなり、遅れは大きくなった。 おそらく、愛知や静岡、首都圏の他の列車にも多少、遅れや番線変更など、影響があったのではないかと思う。九州での人身事故が、関東にまで影響を及ぼしてしまう。 長距離を走る列車だけに、影響が広範囲に及んでしまう。平日などはとくに、朝の通勤時間帯にぶつかってくると、非常にやっかいなのがこの寝台列車などの夜行列車で、 例えば今回乗車した富士号など、JR九州、JR西日本、JR東海、JR東日本という四つの会社のエリアにまたがって運行されているので、お互い、 よそのエリアでのトラブルを持ち込まないでくれ、と思っても仕方ないのかもしれぬ。いまや利用者も少なく、厄介者あつかいされている寝台列車が、 老朽化とともに姿を消していくのはやむをえないのかも知れぬ。そしてまた、設備も古く、遅れる、揺れる、というんでは、利用者も少なくなってしまうのも無理はないのかな、と思った。 以前、京都からの寝台列車「なは」号で熊本まで行ったとき、熊本駅に停車した、古臭いブルートレインのなは号は、他のJR九州のポップなデザインの車両群の中にあって、 とても浮いた存在となっていたのを思い出す。
■今回の旅行では、同じルートで往復し、往路は新幹線、復路は寝台列車を使った。新幹線だと4時間半の道のりだが、寝台列車だと、定刻通りに走ったとしても13時間半かかるのだった。 それで感じたことは、新幹線の4時間半は、精神的にも肉体的にもけっこうしんどいが、寝台で横になっての13時間半は、まったく苦痛がないということで、もうすぐ終点の東京というあたりまで来ると、 もっと乗っていたくなる気持ちにすらなった。ごろっと横になったまま、大きな窓から見える景色をぼんやり見ているのは楽しい。静岡県内を走っているときは、お茶の栽培は北向きの斜面でもやるんだな、 とか、みかん栽培は南向きの斜面でしかやらないんだな、とか、そういうことを思いながら外を眺め、晴れ渡った空の下にきれいに富士山が見え、熱海を過ぎて神奈川県に入ると、 相模湾がきらきら光っているのをじーっと見たりして過ごしているうちにあっというまに横浜を過ぎ、東京都に入る。
■時間をかけてゆっくり移動するのはとても贅沢なことだと思うのだけど、今はそういう時代ではないのだろう。新幹線の4時間半ですら、飛行機での移動に比べると倍以上だから時間の無駄、 ということになるのだと思う。無駄を省き、合理化、効率化だけを推し進めてきた結果が、今の日本である。競争が進めばみんなが豊かになる、とか言った政治家がいたが、競争というやつは、 勝つ者がいれば負ける者がいるのだから、そんなわけないだろうと思っていたら、若者は貧しく、自動車工場で働く者が自動車を買えないような世の中になった。将来のこの国は、よその国の人間が自動車に乗り、 日本人はみな自転車にしか乗れなくなると思う。フランスの国民が、アメリカ型競争社会を標榜するサルコジを大統領に選んだのはショックだった。フランスこそ、そういう指向と対極にある国であってほしかったからである。
■話がそれた。いったい何を言っているのだこれは。それはそれとして、終点の東京駅が間近になり、車掌さんが乗客一人一人に、遅れて申し訳なかった、と謝って歩いていた。 定刻より結局ちょうど1時間20分遅れて終点東京駅に到着。東京駅のコンコースはたいへんな混雑だった。その様子を物珍しそうに白人がカメラでさかんに撮影していた。 来年3月に、はやぶさ号とともに廃止になることがほぼ決まっているという富士号だが、それまでにもう一度くらい乗ることができれば、と思う。そんなことを考えながら地下ホーム行きのエスカレータに乗り、 総武線快速に乗り換えて津田沼へ。
■上の画像は、寝台特急富士号で、熱心に外の景色を見る少年。
No.1260 2007-12-29
■早起きしてチェックアウト。外はまだ真っ暗で、厚狭駅の新幹線ホームだけがまばゆく光っていた。18きっぷにはんこを押してもらい、改札を通って美祢線の始発に乗車。 広くて立派な駅である。一両だけのロングシート車。美祢線もまた、瀬戸内側の厚狭駅から日本海側の長門市駅を結ぶ、いわゆる「陰陽連絡線」の一つで、山陰と山陽を結ぶ路線の中でも比較的短い距離の路線である。 木次線や芸備線ほどの高い山を越えるわけでもなく、山口線のようにSLも走ってなければ伯備線のように特急が走っているわけでもないので地味な存在かもしれぬ。
■沿線には、おそらくこの地域の中心的な美祢という町があり、美祢駅には駅員さんがいた。一人乗ってきて、一人降りていった。7時を過ぎてからようやく、東の山の稜線が見えるくらいの明るさになった。 部活に行くと思われる高校生らが乗り始めた。長門湯本という駅のあたりからはたくさんの温泉宿が見えた。沿線は、正しい日本の田舎の風景という感じで、 山あいに水田が広がり、瓦屋根の屋敷が集まって集落になっている。このあたりも赤い瓦を使っている家が多い。こんもりした山の間を抜けて長門市駅へ。 たくさん乗っていた高校生らが、みなここで下車。長門市駅から仙崎駅の区間の支線は、山陰本線の一部という扱いになっているが、 実際には美祢線の列車が朝昼夕に何本か乗り入れており、関東でいうと、群馬の吾妻線の一番奥、万座・鹿沢口駅から大前駅の区間のように、一部の列車のみが乗り入れる区間となっている。 時刻表を見ると、6時台、8時台、12時台、16時台、17時台にそれぞれ一本ずつ美祢線からの列車が発着し、7時台に一本、仙崎〜長門市間のみを走る列車がある。
■仙崎駅で下車。線路の末端がホームから見えていて、車止めもあり、終着駅らしいたたずまいである。西日本は関東とくらべると日の出が少し遅いので、7時半くらいで、天気が曇りなので、ぼんやり薄暗い。 駅舎内は電灯が消えていて、一層暗い。平屋建ての和風駅舎は、ホーム側の壁にはくじらや海の生き物の絵がたくさん描かれている。駅前にはこぢんまりしたロータリーがあり、タクシーが二台ばかり停まっている。 駅に仙崎の町の観光マップのような小さなパンフレットが置いてあったので、一枚もらって、それを見ながら歩いてみた。
■よく知らないのだけど、仙崎は、金子みすずという詩人を生んだ町ということらしく、いきなり駅のホームに「私と小鳥と鈴と」という詩が書かれた小ぶりの看板が立っている。 駅を出て歩くと、町の中心の商店街のある通りが「みすず通り」で、商店街には、みすずにゆかりのあるらしい八百屋や「角の乾物屋」「横丁」などを紹介する説明書きなども設置されているし、 町のいくつかの場所のはみすずの詩碑が設置されており、金子みすず記念館まである。ただ、私は金子みすずについて何も知らないし、詩を読んでも、 特に興味をひくものでもなかったが、なんにせよ、金子みすずで観光の町づくりをしようという意気込みは十分に伝わった。それよりも、私がこの町を歩いてみようと思ったのは、 一日に数本しか列車が来ない駅のある町に興味があったのと、たまたま何かの地図でこの町を見たとき、海に突き出るようにして出っ張っている土地に、古い家並みがひしめき合っている様を見て、 これはいったいどういうことになっているのか、と思ったからである。
王子山公園から見た仙崎の町並み
■北の海に突き出た地形の真ん中にみすず通りが南北に通っており、北に向かって歩くと、左右に路地があり、その先に海が見えるので、ふらふらとそちらへ行ってみた。 どういうわけか、朝7時台だというのに既に開いている薬局などがあり、おばあさんが店番をしている。海に突き出た小さな半島のようになっている町の外周には道路があり、 堤防の向こうは日本海である。空は寒々とした感じで曇っていてあまり明るくないのだけど、どういうわけか、海は南国のようなきれいなエメラルドグリーンというのか、 そういった色をしていた。不思議である。海水の質なのか、水温なのか、海底の砂の色なのか、太陽の光の角度だとかそういったことなのか、どうしてだろう、と寒い風が吹くなか、 考えながら歩いていた。透き通ったきれいな水だった。海からまた路地を歩いて町の中に戻っていくと、寺がいくつかある。小さな町なのに寺がたくさんあるのだった。 みすず一色の町だが、さりげなく古めかしい板張りの家屋や店が多く立ち並んでいる町並みと、路地の間から見えるきれいな海のほうが強く印象に残った。 町の北端と、狭い海を挟んで北向かい側にある青海島という島を結ぶ青海大橋があり、歩いて渡ってみた。青海島に渡るとすぐ、高台の上に王子山公園があり、仙崎の町を見渡すことができる。 川のように見えるせまい海を挟んで、小さく細く突き出た土地の中にたくさんの木造家屋がひしめきあって建っている様子がよく見える。
■高台を下りて青海大橋を渡って仙崎の町のほうに戻った。途中、見るからに気の弱そうな犬とすれちがった。道の端を遠慮がちに歩いていた。橋を渡りきると仙崎の町の東側に出た。 東岸には漁港があり、たくさんの小さな漁船が停泊している。「海外引揚上陸跡地」の碑があった。橋があって、弁天島という小島と結んでいるようである。漁協の建物があり、魚市場があった。 市場のすぐそばの路上で、魚をその場でさばいて売っている者らがいた。「青海島シーサイドスクエア」という、飲食店や土産物の店がある一角があり、観光遊覧船も出ているようである。 朝から土産物店は営業しており、海産物等が並んでいた。どうやらこの辺りではイカがとれるようだ。かまぼこや佃煮の類も多く並んでいた。 そこのすぐそばにある「観光船乗場」というバス停を見ると、たまたまちょうどいいバスがあったので、乗ることにした。小型のマイクロバスのような路線バスで、老人が数人乗っていた。
■仙崎の駅を経由して長門市内へ。大きな病院で老人達がほとんど下車した。長門市駅で下車。運賃は160円。駅舎の向こうに山が見える。蒸気機関車の車輪がひとつ展示されていた。 少し時間があったので、駅の周辺を歩いてみた。すぐに終わってしまう駅前商店街があり、路地の向こうに三角の山が見える。駅の近くにある居酒屋のような店の壁に 「焼き鳥日本一の町 長門」といったようなことが書かれていた。同じような宣言を、前の月に行った愛媛の今治でも見たような気がする。焼き鳥はおいしいので、 日本中あちこちに焼き鳥日本一の町があってもべつにいいかなと思う。駅前に「コンビニ」と書かれた、花屋とくっついているスーパーマーケットみたいな店があり、 やる気のなさそうなおやじがレジにいた。
■下関まで行ってみようと思い、朝乗ってきた美祢線で厚狭まで戻ってから山陽本線に乗り換えるか、前の晩に乗った山陰本線でまっすぐ下関まで行くか悩んだ。所要時間はだいたい似たような感じである。 どうせなら海が見えるほうがいいなと思い、山陰本線で行くことにした。長門市駅から西へ向かう黄色と白の列車は、とても空いていた。主な乗客は老人と高校生である。 熊本や岩手など、いくつかの場所で思ったが、地方の高校生のナイキのスニーカー着用率が異常に高いように感じる。この列車でもそうだったし、前日乗った列車でもそうだった。 山陰本線の列車に乗っていて思ったのは、駅に停車するとき、車窓では、停まる前ずいぶん早くから、駅のホームが見えているのだけど、なかなか停車しない。小さな駅舎が見えてくるあたりでようやく停まる。 かつては長いホームが必要になるほどの長い編成の列車が走り、多くの乗客がいたのかな、と思った。今では、一両か二両で走る列車が、長いホームを持て余していて、手入れの行き届かないホームの端のほうなんかを見ると、 笹などが生い茂っていたりする。
■しばらく、入り組んだ海岸線に沿って西へ走る。前日走った区間だが、このあたりを通る時間には既に暗くなっていたので、様子がわからなかった。明るい時間に改めて景色を見ていると、 どうしてかよくわからないが、道路に設置されているガードレールが、黄色い。普通の白いガードレールもあるが、黄色いガードレールが目立つ。 何か意味があるのだろうかと思ってしばらく何箇所か観察していた。ことによると、センターラインがオレンジ色で、追い越し禁止の区間に設置しているのではないか、と考えたが、 べつに関係なかった。後から調べてわかったのだけど、山口県のガードレールは、数十年前の国体の開催に合わせて、県の特産である夏みかんの色にしたとか、そんなどうでもいい理由だった。
■西へ進むにつれて徐々に、赤い瓦の屋根が減ってゆき、よく見慣れた黒い瓦の屋根が多くなっていく。石見の国からだんだん離れてきたということなのだろうと思う。車窓を見ていると、仙崎で見たような、 きれいなグリーンの南国のような色の海が見える区間が続き、砂浜は白い。途中、小串という駅で20分ほど停車したので、列車から出て外の空気を吸った。寒い風が吹いている。ホームの跨線橋を渡り、 駅舎まで行くと、出入口の引き戸のガラス越しに、海が見えた。駅のすぐ前には老人ホームのような施設があり、そこの敷地のわきを抜けていくと、道を挟んですぐに海があった。ここの海もやはりきれいなグリーンで、 あたたかい海の色のように見えるのだけど、とても冷たい風が吹き付けているのだった。海から直接風が吹いてきて寒いので、すぐ駅に戻った。列車に入ると暑いほど暖房がよく効いていた。
■長い停車のあと、ようやく発車した。前夜、乗り換えをした幡生駅を過ぎて、本州の西の果て、下関駅に到着。大分の宇佐行きの列車や福岡の行橋行きの列車などが入線しており、 あれに乗れば九州行けるんだな、とか思って、乗ってしまいたい気持ちになるが、我慢して、駅のホームのうどん屋で、ふく天うどんを食べた。寒かったので、あったまるし、ふく天がとてもおいしい。450円。 中学生くらいの子供らが、食べたそうな顔をしてうどん屋のまわりをうろうろしていた。駅には多くのホームがあり、大きな駅である。去年だったか二年前だったか、確か下関の駅舎が火事で焼失したのではなかっただろうか。 実際行ってみたが、火事の痕跡は見当たらなかった。駅からはペデストリアンデッキを経由して、大きな商業施設などと接続されており、駅の前にはいろいろな店があって、人の通りも多く、とても賑わっている。 寒かったので、無印良品で安いマフラーを買って、巻いて歩いた。
■下関については何も調べてこなかったので、適当に歩いた。駅を出てまず目に入った、巨大なタワーがあり、そちらに向かって歩いてみた。てっぺんに球体が乗っているような、ガラス張りのタワーである。 後から調べたら、海峡ゆめタワーという施設で、高さは150メートル余りだそうだ。30階には展望室があるそうだが、中には入らなかった。さらに歩くと、片側三車線ある大きな通りに出た。通りの両側には、 それほど高層ではないが、大きなオフィスビルが建ち並び、下関駅を発着する路線バスがひっきりなしに走ってゆく。イメージしていたよりもずっと都会である。電話ボックスの屋根の上には、ふぐの像があった。 「かなめ通」という飲み屋街を抜け、境内にソテツというのか、フェニックスとか、なんかそういった種類の南国風の木が植えられている、高台にある寺を見たりしながらさまよい歩いた。寺に上がる階段から、 通りの向こうに海が見えたので、そちらへ行ってみた。港になっていて、たぶんこれが関門海峡なのだろう、と思いながら、国道9号線に沿ってうろうろ歩いてみた。おぼろげな知識では、確か下関には、 明治期あたりの古い建物群のあるエリアがあったのではないか、と思い出して、そういう場所に行けないだろうかときょろきょろしながら歩いたが、皆目見当がつかず、見つけたのは「山口銀行旧本店」 という県指定の有形文化財だけである。説明書きを読むと、1919年に竣工した建物だそうで、イタリアルネッサンス様式とのことである。灰色の石造りだが、それほど重厚な感じではない。
関門海峡
■そこを過ぎて少し歩くと、金ぴかの観音様が唐突に姿を現したが、どうにも安っぽい感じが否めない観音様であった。もう少し歩くと「海響館」という巨大な水族館が見えてきて、建物の周辺は公園かなにかが整備されるようで、 工事中だったが、水族館には、多くの客が来ているようで、周辺も賑わっている。水族館の裏手にまわると、海辺がきれいに石畳で舗装されていて、遊歩道のようになっている。そのあたりからは、海を挟んで向こう側に、 門司の町並みが見え、本州と九州の近さを実感する。関門海峡の上には橋が架かり、橋の下をたくさんの船舶が行き交っているのが見えた。魚釣りをしている者らがけっこういた。 気づくと、駅から結構歩いていたようなので、バスで駅まで戻った。「海響館前」というバス停から乗車し、下関駅前で下車。190円。
■下関駅から、山陽本線の新山口行きの列車に乗車。前日も合わせて、長い時間山陰本線に乗ってきたので、山陽本線に乗ると、そのギャップがすごい。山陰線はほとんどが無人駅であるのに対して、山陽線は、 おそらくほぼ全て有人駅で、乗降客数も比べ物にならない。山陰線は単線だが、山陽線は当たり前のように複線で、場所によっては何本もの線路が並行して敷かれている。 山陽線の活気があってきれいに整備されたホームと、山陰線の粗末なホームなど、そういったあたりを見比べただけでも、同じ県内でもこれだけ地域によってちがうのか、と思わされる。
■列車の中はあたたかくて、眠たくなった。40分あまりで宇部駅に到着。宇部線に乗り換え。宇部線の列車は、白い車体に赤と青のラインが入っていた。山陽本線と宇部線、小野田線と小野田線の長門本山駅までの支線を、 どうにか組み合わせて、全線乗車する計画を立てた。とくに長門本山駅までの支線は、たったの2.3キロの区間だが、朝二本、夕方三本しか走っていないので、ここをうまく、できれば明るいうちに乗って、 他の線も全部乗って、最後は新山口までたどり着くルートを考えた。まずは宇部線で宇部新川駅まで乗車。10分くらいで着く。宇部新川駅は、なんだか不思議な駅で、まず、跨線橋の階段の天井が低い。 頭をぶつけるかと思った。駅舎にいちばん近いホームだけやたらと広くて、改札口からホームに出る辺りには、円形の池があったり、ちょっとした庭園のようになっている。駅を出ると、駅前の事務所などの建物の向こうに、 煙を出す大きな煙突がいくつか見え、さすがに工業都市宇部である。二階建ての駅舎は、前面の回廊のような場所に木製の柱が並び、天井が高い。待合室のようなスペースもあり、今はがらんとしているが、 おそらくかつては利用者が多くいたのだろう。キオスクもある。駅のすぐそばには「松島町商店街」があるが、ひと気が無く、さびしい。駅前には廃業したスーパーマーケットがあり、格好の駐輪場と化している。 この駅や、他にも下関だとか、長門市駅など、山口県内の駅には、よく京都への旅行の企画きっぷだとか、ユニバーサルスタジオの宣伝などが多く貼られていて、 山口の人達は京都や大阪あたりに旅行に行く人が多いのかなと思った。
■宇部新川駅から、小野田線に直通する列車に乗車。宇部線との分岐点である居能駅を過ぎ、小野田線に入る。10分少々で雀田駅に到着し、下車。長門本山支線の分岐駅がこの駅である。 ホームの形が三角形で、無理やり分岐線のホームを作ったように見える。神奈川の鶴見線の浅野駅だっただろうか、あそこもたしか支線がある駅で、三角形のホームだった記憶がある。 最初路線図を見たとき、小野田線は、京浜工業地帯のど真ん中を走る鶴見線に似ているのかな、となんとうなく思っていたら、やはりそういう感じで、元々、宇部の工業地帯の貨物路線だとか、石灰石の積出港を結ぶような性格の路線だったようである。 雀田駅は、どことなく、私鉄線の駅のようなたたずまいに見えた。木造で、三角屋根の駅舎である。驚いたことに、こんな小さな、利用者も少なそうな駅で、年配の男性が窓口で切符を販売していて、高校生くらいの者が切符を買っていた。
小野田線長門本山支線長門本山駅
■40分近く、駅の周りをぶらぶらしたりして時間をつぶして、長門本山支線の列車に乗車。途中、浜河内という駅があり、5分ほどで終点の長門本山駅に到着。乗客は私のほかに男性一名のみ。 トイレがあるほかは、ホームに屋根とベンチがあるだけの小さな駅であった。駅前にはぽつんと赤い郵便ポストが立っていた。線路は、ホームの先を少し行ったところで唐突に途切れ、粗末な車輪止めがある。ホームで背伸びをすると、 ススキの野原の向こうに、海がかすかに見える。駅の前の道路はそれなりに自動車の交通量が多い。犬の散歩をする者が何人か通りかかった。自動車で通りかかった若い男女が突然駅の前に自動車を停め、 駅と列車の写真を撮って、去っていった。30分ほど経ち、折り返しの列車に乗車。乗客は自分ひとりしかいなかった。雀田で下車。
■雀田から小野田線の列車に乗り、山陽本線の小野田駅まで乗車。小野田駅は利用者も多く、普通の地方都市の駅という風情で、平屋の一階建てコンクリートの駅舎には、若い者も多くいた。売店も営業している。 小野田から、小野田線で宇部新川駅へ。新山口まで行く宇部線の列車に乗車。地方の、あまり乗客の多くない路線は、ほとんどワンマン運転だが、この列車には、車掌が乗務していたので、意外だった。 乗客はそれほどおらず、3両の編成だが、各車両とも、数えられるくらいの乗客数だった。小野田線ほど、工業地帯の列車、という感じはしないが、遠くに大きな送電線の鉄塔や、倉庫の屋根や、工場の煙突らしきものは見えた。 途中、草江という駅のあたりで、歩いて行ける距離に、きれいな明るい近代的な建物が見えたので、何かと思ったら。山口宇部空港だった。
■岐波駅、阿知須駅などを過ぎて、前日、最初に降り立った新山口駅に到着。これで、山口県内の在来線は、岩徳線を除いて全て乗車できた。駅前のコンビニエンスストアに行く途中、種田山頭火の句が書かれた鉄製のモニュメントがあった。 「またふるさとにかえりそばの花 山頭火」と書いてあった。新山口駅の新幹線口から少し歩いて、ホテルがたくさん建っているあたりを通り、イオンのショッピングセンターまで行き、少し食べものや飲み物を購入。 新山口発20時26分の、九州からの寝台列車富士に乗車の予定だったのだけど、人身事故の影響ということで、遅れていた。駅の待合スペースのような場所に腰かけて待っていたら、 壁に「中原中也 生誕百年 百年前、ひとりの詩人が山口に生まれた。」という大きな広告が貼ってあった。どこかの企画展だと思う。「冬の長門峡」という詩の手書きの草稿が拡大されている。それをぼんやり読んでいた。 寒い寒い日なりき、というフレーズが繰り返し出てきた。金子みすずや種田山頭火、中原中也など、山口から有名な詩人、俳人が輩出されたようである。
■定刻よりちょうど一時間遅れで、富士が新山口駅に入線した。乗車し、すぐに発車。遅れを取り戻すためなのか、今まで乗った寝台列車で、今回の乗車がいちばん揺れが大きかったように感じた。でもすぐ眠たくなって、寝た。
■画像は上から、王子山公園から見た仙崎の町並み、下関の海響館の裏から見た関門海峡、小野田線長門本山支線の長門本山駅。
No.1259 2007-12-28
■早朝、快速で品川まで。のぞみ3号博多行きに乗車。新横浜あたりでようやく空が明るくなり始めた。冬なので、夜明けが遅い。新幹線には朝からたくさんの乗客が乗っている。 空はどんより重たい雲で覆われている。どういうわけか、そんな空模様なのに富士山はくっきり見えた。相変わらずでかい。東京から西へ向かい、 新大阪を過ぎて岡山、福山、広島とだんだん乗客が減ってゆく。徳山のあたりは瀬戸内海沿いに重工業地帯となっているのが見えた。
■それはそれとして、今回の旅行は当初「鉄道乗りつぶしと自転車輪行の両立は可能か」という試みで計画を立てたのだけど、天気予報はけっこうな雨ということだったので、 自転車輪行はあえなく断念となった。「輪行」というのは、自転車を折りたたんだり分解したりして自家用車や公共交通機関によって持ち運び、目的地で自転車に乗る、という旅行の形のことである。 そういうふうに言うらしい。
■のぞみ3号は定刻どおりに新山口駅に到着。新山口駅は、山陽新幹線のほかに、山陽本線(在来線)、山口線、宇部線が乗り入れる大きな駅で、なかなか活気がある。新山口からは18きっぷを使用。 時間をとって山口県内を歩くのは今回が初めてである。どんな感じだろうかととりあえず山口線の0番線ホームへ向かって歩くと、「のぞみ停車!」とか「SLやまぐち号」とかいろいろ貼ってある。 のぞみが停車するというのは、静岡県内でさえ一駅も停車しないのだから、確かになかなかすごいことだと思う。あと、山口線というのは、近年のSL復活ムーブメントのはしりとなった路線で、 あんまりSLには興味ないが、ファンも多いようである。駅のホームの外壁や時計、時刻表や改札口など、レトロ風にしている。そもそも駅のホームの石積みとかホームにかかっている屋根など、 どこか重厚な雰囲気がある。昔から交通の要衝であったのだろう。かつては「小郡(おごおり)駅」といっていたそうだ。
■山口線は瀬戸内側の新山口駅から、山口県の県庁所在地がある山口駅を通り、県境を越えて島根県に入り、日本海側の益田駅までの区間、山陽と山陰を結ぶ、いわゆる「陰陽連絡線」の一つである。 黄色と白の車体の列車に乗車。山間の集落ごとに駅があるような感じで、その集落は畑や田に囲まれて、屋根の色が赤い。赤というか、レンガ色というのか、赤茶というか、べんがら色というか、朱色ぽいのもある。 そんな色の瓦屋根の家が軒を連ねる。石州瓦というやつで、石見の国で作られる瓦なのだと思う。白壁の屋敷にも板張りの壁の屋敷にも良く似合う色の瓦だと思った。 山口線のいくつかの駅の駅舎の屋根にも、その瓦が使われている。外は雨が降ったりやんだりしていた。
津和野の殿町通り
■1時間40分ほどで津和野駅に到着。ちょうど津和野からが島根県になる。観光案内などで「萩・津和野」と紹介されることが多いが、萩は山口県で、津和野は島根県である。そして萩と津和野はけっこう離れているのだった。 駅から出ると間近に山並みが見える。有名観光地だから、さぞかし大勢の観光客で賑わっているのではないかと思っていたが、天気のせいもあるのか、まったくといっていいほどいない。それほど下調べしてこなかったので、 行き当たりばったりで歩き出した。たしか、鯉が泳いでいる水路がある通りの写真を見たことがあるので、そこを目指して歩くことにした。駅から5分も歩くと、すぐに見つけることができた。「殿町通り」というのだそうだ。 寒いのか、鯉は元気なく、水中でみなじっとしている。雨のしずくをきらってか、鯉たちは小さな橋の下や木の下に集まって、じっとしていた。
津和野カトリック教会
■その通りに面して津和野町の役場があり、その建物も、立派な門があり、 庁舎も木造の何やら相当古い建物を利用しているようで、驚いた。役場の人達は、年末の大掃除をしていた。役場の並びには、津和野藩の家老の屋敷があったり、他にも広い敷地の立派な屋敷があったりする。 通りをはさんで向かい側には、幕末の時代に優れた人物を多数輩出したという当時の学校や教練場のような施設をそのまま利用した資料館などがある。その並びには、赤い瓦屋根の町並みのなかでひときわ目立つ洋風建築があり、 なにかと思って近づいてみると、津和野カトリック教会というものだった。自由に入ることができるようになっており、靴を脱いで入ると、板張りの床の上に畳が敷かれているのだった。教会については知識が無いが、 こういう教会はめずらしいのではないか。自分の他には誰もいなかった。畳が敷かれた床に、ステンドグラス越しのカラフルな光が当たり、オルガンが置いてあって、クリスマスツリーもあった。一番奥の壁には、 なにか尖塔のような建物のレリーフがあった。日本の伝統的な建築群の町並みの中にぽつんとある洋風建築の中で、天井の高いしーんと静かな畳の空間でぼんやりしていると、不思議な気持ちになる。
■通りを歩くと、酒蔵や種苗店など、古い建物が次から次へと出てくる。そういう建物の間の路地からは、低い雲がかかるこんもりした山が見える。一度駅のほうまで戻り、一軒の飲食店に入って遅い昼食をとった。 「うずめ飯」という郷土料理があって、それを食べてみた。「うずめ」というのは、埋める(うずめる)ということで、ぱっと見た感じ、どんぶりに入った普通のお茶漬けのようで、白いごはんしか見えないのだけど、 混ぜると下から鶏肉や椎茸やにんじんとか色々な具が出てきて、おいしい。江戸時代に、質素な食事をするようお触れが出たときに生み出された食べ方だとか、確かそういった由来があるのだそうである。 その店のテレビではちょうど、ワイドショーのような番組が放送されていて、小田切ジョウと、なんとかという女が結婚するとかそういった内容であった。それを見ていた、いかにもダメな感じのおやじが、 いまどき長髪は流行らんやろー、などと言っていた。
■殿町通りから少し離れて裏通りのような細い道をうろうろしていたらいつの間にか墓地に入っていたり、古い旅館があったり、「小藤文次郎先生 生誕の地」という碑や 「日本脳外科の父 中田瑞穂先生 生誕の地」、「文学博士 劇作家 中村吉蔵生誕之地」など色々な記念碑があった。屋根の一番上に粗末な十字架がついた不思議な古い民家があったり、 品揃えの悪いスーパーマーケットがあったりした。駅まで戻ると、バスロータリーの横にSLが展示されているのに気づいた。D51型蒸気機関車だそうである。黒い鉄の塊といった風情で、迫力がある。 津和野は「山陰の小京都」などと称されたり、自らもそう宣言していたりするが、そういう印象はあんまりなかった。小京都なんかじゃなく、とても独自性のある町だと思う。 津和野駅から再び山口線の列車に乗車し、終点の益田駅に到着。ちょうど一年くらい前に泊まった駅前のホテルが見えた。
■そういえば2005年、2006年、そして2007年と、3年連続で12月に島根県を訪れたことになる。昨年と一昨年は出雲方面だったが。冬の山陰は、天気があまり良くなくてどんよりしていて、 人もあんまり歩いてなくて、さびしい感じがして、それがいい。益田駅にくっついているレコード店に入ってみたら、とても残念な感じの品揃えの店であった。 益田という土地は、どうやら柿本人麻呂になにかゆかりのある土地らしく、ユーモラスな表情をした人麻呂の像がガラスのケースに入って駅のホームに展示されていた。 駅から少し歩いてみると、歓楽街になっている通りがあり、「ジャズとボルシチの店」があったり、古い石造りの醤油工場があったりした。「益田をジャズの町に」という紙が貼られた店がいくつかあった。 益田駅に戻って、山陰本線の下関行きの列車に乗車。
山陰本線の車窓
■山陰本線は日本海に沿って走る長大な路線で、京都から兵庫県、鳥取県、島根県、山口県を横断し、下関の一つ手前の幡生(はたぶ)という駅までの670キロ余りの区間走る。 そのうち、京都から益田までの区間は以前乗車したことがあったので、今回は益田から幡生まで乗車することにした。日が暮れて暗くなるまで、列車の窓から日本海を眺めていた。 須佐駅、宇田郷駅、木与駅あたりの区間から見える日本海の景色が良かった。夜になって外は何も見えなくなった。車窓に映るのは列車の中の灯りの反射だけで、 家や店の灯りどころかほとんど自動車のライトの明かりも見ることのないような場所を走る列車に揺られてヘッドホンで音楽など聴いていると、このまま地の果てまで行ってしまうような感覚になる。 時々、無人駅から一人二人、乗車してくる者がいる。
■山陰本線と山陽本線が合流する幡生駅に到着し、下車。下関の一つ隣の駅である。ここまで来ると九州はもう目前である。今回は九州方面へは行かず、幡生から東へ。下関からの上り列車に乗り換え。 4両編成の列車にはとてもたくさんの乗客がおり、立っている者も多数いた。とても賑わっていて、華やかな感じさえする。ずっと乗ってきた山陰本線の列車とのあまりのギャップに少し戸惑う。 山陰と山陽の地域差を目の当たりにしたような気がする瞬間であった。
■幡生から新山口行きの列車に乗車して東に向かい、いくつかの駅を過ぎ、新幹線も停まる厚狭(あさ)という駅で下車。駅からすぐ近くのホテルに泊まった。
■画像は、上から津和野の殿町通り、津和野カトリック教会、山陰本線から見た日本海と石州瓦の集落。
No.1258 2007-12-24
■三連休だった。初日と二日目の午前は雨だった。二日目の午後と三日目は自転車で少し出かけた。国道14号線を行ったり来たりした。それ以外はだいたい家にいた。 寒くて冬らしい。日が短くなった。
■ここ最近の津田沼近辺事情である。11月は、新京成線の新津田沼駅前にあった旧マルイの建物がminaというファッションビルになった。マルイはださいイメージがあったし、 実際たいしたもの売ってなかったのでほとんど利用することはなかったが、新しいファッションビルも、これといって見所のないテナントばかり入っているので、行くこともないだろう。 11月の末には、JR津田沼駅の南口にあるユザワヤの地下に「カズン」というスーパーマーケットが開店した。北口には西友、ヨーカドー、ジャスコがあり、日用品、食料品の買い物には不自由しないが、 南口は、ダイエーが閉店して以来二年くらいだろうか、スーパーマーケットがなかったので、ようやく便利になった。南口側住人の自分としてもありがたいことである。で、せっかくスーパーマーケットができたわけだが、 聞くところによると、来春にはダイエー跡地にジャスコができるらしい。あと、一度行ってみようと思っていた、京成津田沼駅前のワイがや通りのタンポポカフェが閉店してしまった。残念である。 JRの線路沿いにあった「ファンキー・ブッダ」という服屋も店じまいした。こちらはそんなに残念ではない。名前もちょっとあれだし。
■12月のはじめ、ダイエーの跡地の裏から東福寺の前を通って国道14号に抜ける道を自転車で走っていたら、向山小学校のとなりの墓地のあるあたり、京成電車の踏切の前後を、たくさんの警察官が歩いており、 何事かとおもったら、刺殺事件があったらしくて、現場を調べていたようだった。あんなに大勢の警察官を見たのは初めてだったので驚いた。殺人事件だとやはり違うな、と思った。事件については続報が聞かれないので、 まだ解決していないのだと思う。この事件の前後に、習志野で小学生が刺されて怪我を負う事件や、市川でも通り魔事件があった。たいへん物騒なことである。
■長い間、手付かずとなっていた津田沼駅南口の大規模農地が、とうとう宅地開発されることになった。市街化調整区域となっていたエリアだが、都市計画法の改正により、 近年、市街化区域に新たに編入されて、小規模開発がぽつぽつ行われるようになっていたこと、地権者による南口開発準備組合の設立が市議会で承認されたこと、 後継者の不足のために農業を継続していくのが困難になっており、休耕地が多くなっていることなど、色々事情があるようである。東京から30キロ圏内にあるJRの駅前で、 35ヘクタールくらいある土地を一から町づくりできる機会はほとんどないのではないかと思うので、いい町づくりをやってほしい。マスタープランを見ると、開発区域内には小さな農地がいくつか残るようである。 あと、おそらく幅12メートル以上の道路や、大きな公園なども整備される計画となっている。大きな公園は少し楽しみである。数年先のことだと思うが。それとまた別に、 駅の南口の、田中診療所の敷地の建物が全部取り壊されて、九階建てのマンションの建設工事が始まった。
■津田沼の情報満載である。ここを見にきてくれるほとんどの方にとってはあんまり意味ないが、そんなことは気にしていないのだった。
■年末である。
No.1257 2007-12-16
日曜日の幕張のビル街
■澄んだ冷たい空気がここちよい季節になった。寒いほうが調子いい。自転車に乗って幕張までぶらぶら行くことにし、まろにえ通りから京成津田沼駅前、 ワイがや通りから国道14号、袖ヶ浦団地、浜田交差点経由で海浜幕張のオフィス街へ。土日の幕張のビル街は人がいなくてがらんとしている。 そんな界隈をのんびり走り、京葉線の海浜幕張駅前の商業エリアまで来ると、それなりに人が行き交い、賑わっている。マンション街の通りは相変わらず路上駐車が数珠繋ぎ状態である。 過剰な自動車依存社会だと思う。環境がどうのこうのというのはあんまり気にしてないが、それとは別に、いずれは脱オイル社会に向かわなければいけないのではないかと思う。 みんな、チョロQみたいなずんぐりした図体ばかりでかい車に乗っている。夜は塾帰りの小学生のお迎えの車が、道路にずらっと並んでて、ばかみたいだと思う。
■話がそれた。幕張のヴィレッジヴァンガードにちょっと立ち寄って、本とCDをちらっと見て、「団地ともお」の10巻が出てるのに気づいたり 「ねこ鍋」という本を手にとって見たりしてから海浜大通りに出て、美浜大橋の上から東京湾を眺めると、めずらしく白い波が立っていた。太陽が反射してまぶしい。 空気が澄んでいるので、湾沿いの町並みがいつもよりくっきり見える。 海浜大通りの歩道上で、ウィンドサーフィンのセッティングをしている者達がいた。海辺に出ると、ウィンドサーフィンをしている者達がたくさんいた。 晴れ、風、日曜日ということで、たくさんいたのだと思う。このあたりに来るまでは追い風だったので気がつかなかったが、北風が強くて、北西方向に向かって、津田沼方面へ戻ろうと走ると、 自転車のペダルが重く、なかなか進まない。来るときは、おお今日はなんだかやけにペダルが軽いな、などと思っていた。 学生のとき、彦根に住んでいたころ、冬になると琵琶湖からすごい北風が吹きつけて自転車が前に進まなかったことを思い出した。強風の中、どうにか走って、 幕張メッセとマリンスタジアムのあたりを過ぎ、コストコというスーパーマーケットや東京インテリアの横を通り、秋津公園のわきを経由して国道14号に戻り、津田沼まで戻った。 走行距離は約29.1キロ。
■ふれあい橋の通りから国道14号に出てくるところの、鷺沼町の交差点の一角に、柵に囲われて一頭のヤギが飼われているのに最近気づいたのだけど、あれはなんなんだろう。 白いヤギが柵の中で枯れた草を食んでいた。謎である。
No.1256 2007-12-15
多摩市陸上競技場
■各駅停車で本八幡まで行き、都営線に乗り換え。京王線直通の急行に乗って、京王永山という駅で下車。本八幡からちょうど一時間くらいで着いた。乗り換えが一度だけで済んで、とても楽である。 多摩という土地を訪れるのは初めてである。京王永山と隣接して、小田急の永山駅もある。駅の周辺を見渡すと、ファーストフード店やスーパーマーケットの西友、飲食店、 ドラッグストア等が目に入る。駅前から諏訪四丁目行きのバスに乗車。私と同じ目的地へ向かう者が大勢いて、大変な混雑である。10分ほどの乗車で終点に到着。 道路と京王線、小田急線の線路を越える橋を渡るとすぐ、多摩市陸上競技場に着く。
■女子サッカーリーグの一部二部入替え戦を観戦。一部七位の伊賀くの一フットボールクラブと、二部二位のジェフユナイテッド市原・千葉レディースの対戦。今年二度目の女子サッカーの観戦である。 メインスタンドはかなりの客入り。芝生のバックスタンドは開放していなかったが、芝生の両ゴール裏には、多くのジェフサポーターと、数えられるくらいのくの一サポーターが陣取った。 先制はくの一。ジェフが金野という選手の美しいミドルシュートで追いつき、直後にセットプレーからくの一が勝ち越し点。前半は2−1でくの一がリードして終了。
■前半は、序盤、くの一の選手達の、当たりの激しさにややジェフが戸惑っていたような印象。技術の面では、一部、二部の差をそれほど感じなかったし、 ディフェンスラインの裏を狙うときなどのスピードでは、ジェフのほうがやや勝っていたと感じた。一番感じた差は、体の当たりの強さとミスの少なさである。 くの一はミスが少なく、特にディフェンダーのプレイが堅実であった。ジェフのディフェンスは、やや不安定で、危なっかしいプレーも時々あった。 後半に入り、ジェフが得点を挙げて追いつき、2−2で後半終了、10分ハーフの延長戦へ。後半は、ジェフが押しに押したが、一点しかとれなかった。
■延長に入るとくの一が再び息を吹き返し、一進一退の攻防。あっという間に延長戦も終了し、PK戦へ。 来年一年を、一部で戦うか、二部で戦うかを決める、あまりにも重い意味を持つPK戦である。4人目まで全員成功し、5人目、ジェフの選手が止められて、くの一の勝利。 この一年、入替え戦出場権を得るに至るまで、必死で勝ち点を積み上げてきたのが、たった一つのPKで、無になってしまう残酷な結果となった。気持ちのこもった、気迫あるいい勝負ではあった。
■帰りはバスに乗らず、競技場から駅まで歩いてみた。少し昔の人達が思い描いた未来の町、という印象。よく整備された道路と、整然と建ち並んだ団地群、緑地のある公園と遊歩道。 どことなく虚ろな風景に感じた。どこをどう歩いたのかよくわからないが、鎌倉街道という広い道に出た。その道路沿いは、よくある地方の国道沿いの風景と同じで、 ファミリーレストランと紳士服店と大型書店などがあった。「地方の国道沿い」と違うのは、それらの店舗のための広い駐車場がないということで、 あと、案外起伏のある地形で、丘陵地帯を段々にけずって造成したと思われる景色だった。神奈川の海沿いの、横浜とか、鎌倉とか横須賀みたいに、斜面にへばりついて建っている住宅も多く見られた。
■帰りも、都営線に直通する急行の電車に乗った。4時少し前という中途半端な時間のせいか、電車は空いていた。本八幡で総武線に乗り換えて、津田沼まで帰った。
No.1255 2007-12-08
藤崎の大イチョウ

アルパカ
■午前中、自転車で、藤崎の大イチョウを見に行った。県道69号を千葉方向へ行き、藤崎交番の交差点を南へ曲がるとすぐにある。でかかった。 道路にこんな大きな木があってもいいのか、と思うくらいの高さで、葉が黄色くなっていてきれいだった。
■来た道を戻り、中野木の交差点から国道296号を経由して国道14号へ出て、京成の船橋競馬場駅を通り過ぎて、ららぽーとの方へ。 夏に自転車を買ってから、自転車関連の品を買い求めにららぽーとのセオサイクルに数度行っていたが、ららぽーとはいつも人がたくさんいるので、 あまり行きたくなくなっていたところ、ららぽーとのとなりにあるビビッドスクエアというところに、ワイズロードという自転車屋があるというのを知ったので、 行ってみた。自転車を止め、中に入ると、なんだかがらんとしていた。ツタヤとスーパーマーケットは、まあまあにぎわっているように見えた。 大きなスペースの片隅の檻の中に、サンタの服を着せられた、というか、サンタっぽい布をかぶせられたアルパカが一頭いた。 ワイズロードでは特に何も買わなかったが、いろいろ品揃えがよい感じがして、これから何か欲しいものがあったら、また行ってみようと思った。
■南船橋駅のあたりから国道357号線を経由して、秋津公園に立ち寄り、サッカー場で何かやってないかな、と思ってちょっとのぞいてみたが、 ピッチ上のスプリンクラーから水が吹き出しているだけだった。ふれあい橋を渡って袖ヶ浦団地を抜け、国道14号に出て、パン屋に寄って、帰った。
■昼から、天皇杯5回戦、ホンダ対名古屋の試合をテレビで見た。ホンダの鋭い攻撃が炸裂して2−0で名古屋を下した。たいしたものである。 4時からは入替え戦の第二戦、広島対京都の試合をテレビ観戦。鬼気迫る、というか死に物狂いというか、そういった言葉が頭に浮かぶ、そんな試合だった。 広島の攻撃を京都がしのぎ切り、0−0。二戦合計1−2で京都の昇格が決まり、広島は二部へ降格となった。 試合の終盤、今季で引退する京都の秋田がピッチに送り出された。京都昇格が決まる試合終了のとき、秋田がピッチ上にいることができたのがよかったと思う。
■上の画像は、藤崎の大イチョウと、ビビッドスクエアにいたアルパカ。
No.1254 2007-12-01
フクダ電子アリーナ
■12月になっていた。
■武田ひさびさの、渾身の自転車輪行旅行記があるので、11月のぶん(こちら)もざっと見ていただけたら幸いだ。
■午前中、国道14号を走って下総中山の自転車屋さんまで行き、調子悪かったギアとブレーキを見てもらった。調節のしかたを教わったので、こんどは自分で直せるのではないか。 自分では気がつかなかったが、自転車屋のおじさんが、ぱっと自転車を見て、スタンドのボルトがゆるんでる、と言って締めてくれた。行って帰って約14.5km。
■家に戻り、Jリーグ二部の試合をテレビで、複数ハシゴしながら観戦。一部昇格がかかっているので、緊迫感がある。前半を見届けてからまた外へ。電車で蘇我。 Jリーグ一部第34節、千葉対名古屋。フクダ電子アリーナ。
■今年最後のリーグ戦。ジェフ千葉は既に天皇杯敗退しているので、今年最後の公式戦でもある。12月だというのにあたたかい。二部の試合は全試合、12時キックオフだったが、 一部の試合は全試合2時半キックオフである。やわらかい日差しがバックスタンドに差し、ちょっとまぶしい。
■結果は0−2で千葉の負け。内容は、今年の集大成のようなクソ試合で、何の意図も感じられないどうでもいい試合だった。 この日の見所は、シーズン最後のセレモニーで挨拶したクラブ社長への大ブーイングだけだった。相手クラブの選手への、形式だけのブーイングではなく、 本当に憎しみを込めた、スタジアムが一体となった大ブーイングだった。その様子はたしかYoutubeで見られたと思う。セレモニーの間、 静かにしていてくれた名古屋のサポーター達には感謝したい。
■ジェフ千葉は、将来に対してほとんどなにも明るい展望の持てないクラブに成り下がってしまった。今年は運良く一部残留を果たせたが、来期は降格候補筆頭だと思う。 クラブとしての明確なビジョンもなく、練習場などの環境も劣悪で、下部組織を有効に活用できず、優秀な人材は去り、無能なトップのみが残る魅力のないクラブだ。 今年はレプリカユニフォーム以外、一切グッズを買わなかった。来期のシーズンシートも更新しなかった。
■今年のリーグ戦は、最後の最後に鹿島が優勝を果たした。大したものである。鹿島の監督のはじけっぷりがとてもよかった。浦和は格好悪すぎた。 降格が既に決まっている、だんとつ最下位のクラブに敗れて優勝を逃すなんて、なにかの罰が当たったとしか思えぬ。横浜FCはよくがんばったと思う。立派だ。
■大宮対川崎の試合をテレビで見た。0−1で川崎が逃げ切るかと思われた後半ロスタイム、大宮の斉藤選手が放ったシュートがネットを揺らし、同点に追いついた。 斉藤選手はまっすぐ、ベンチの奥野選手の元へ疾走し、涙を浮かべて抱き合っていた。引き分けて勝ち点1を積み上げ、大宮の一部残留を決定づけるゴールだった。 今シーズンを最後に引退する奥野選手と、ゴールを決めた斉藤選手は、大宮アルディージャがまだJFLの頃からともに戦い続けた二人で、JFLからJ2へ昇格し、2004年、J1へ昇格した。 奥野選手の最後の試合、負けるわけにはいかぬ、という意地でもぎとった一点だったと思う。いいシーンだった。その後の、奥野選手の引退セレモニーも、とても暖かい雰囲気で、 素晴らしいものだった。大宮という地味なクラブで、代表歴のような派手な経歴もないが、10年もの長きに渡ってチームを支え続けた一人のディフェンダー。 そういう選手を暖かく送り出してあげられるクラブは、幸せだと思う。
■一部からは横浜FC、甲府が降格、二部からは札幌とヴェルディが昇格。一部の広島と二部京都が入替え戦へ回ることとなった。3月に始まったリーグ戦が、終わった。
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